9月3日・聖日礼拝メッセージ(要約)


  聖書:ガラテヤ人への手紙 5章19−26節
  説教:『御霊の実は自制です』


  
「御霊の実は、
   愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」
           
(聖書・ガラテヤ 5:22〜23)

 今朝は最後の御霊の実「自制」です。

 自制とは、自分を制する、自分を制御するということです。
しかしそれがクリスチャンに対して使う「自制」というと、
多くの人々は「キリスト教が教える禁欲主義的なもの」だと思うようです。
道徳的に厳しい戒めだらけの教えは、なかなか受け入れら得るものではなく、
まさに難行苦行を通してその道を究めようとする修道僧のように感じられるかもしれません。
 日本語では「自分の感情や欲望を抑えること」(広辞苑)を意味しますが、
ギリシャ語では「いかなる誘惑にも悩まされず、また惑わされもしない
自由で独立した、自立した人間」を示しています。
日本語の意味合いでは、窮屈で禁欲的な型に押し込められたような「自制」であるのに対して、
その頃のギリシャ語圏での意味合いでは、もっと自由で、無理矢理ではなく、
しかもその中でいかなる誘惑にも惑わされない、負けない強い姿勢を「自制」が指していたとは興味深いことです。

 さて御霊の実としての「自制」に移りましょう。
 9つの御霊の実の中で最後の「自制」は、他の実と比べて「共通していること」と「全く違うこと」があります。

 まず共通点は、「御霊の実として実るが、それは自然発生的に実るのではない」ということです。
植物を育てるときには、そこに植えるだけではなく手入れも必要です。
水やりをし、肥料をやり、必要に応じて剪定をするなど渡した私たちに出来ることをしなければなりません。
同様に、私たちも自らの努力を怠ってはならないのです。

 それからもう一つの共通点、「どんなに努力しても努力だけでは実らないものである」ということです。
私たちの信仰は、自らの努力ではどうすることも出来ない罪の解決を、
救い主として来て下さったイエス・キリストを受け入れることで、与えられるものです。
御霊の実は、神さまと私たちの共同作業による結果なのです。
私たちはこの御霊の実を結ばせて行きましょう。
聖霊なる神さまに導かれ、祈って行き、神さまと共に歩む者でありましょう。
著者であるパウロはその光景を古代オリンピックに例えました。
人々はいずれ朽ちてしまう月桂樹の冠を受けるために懸命に切磋琢磨しました。
それならばなおのこと、私たち信仰者は天にある冠を受けるために切磋琢磨しようではないかと。
つまり「自制」とは自制すること自体に意味があるのではなく、
その先にあるゴールを目指すという更に高いモチベーションがあるのです。

 最後に他の8つとの違いを挙げねばなりません。
自制に関してパウロは、必ずしも「完璧な自制を求めていない」ということです。
Tコリント7:9には結婚についての教えが書かれていますが、
「私のように出来るなら自制せよ」「しかし出来ないならば結婚しなさい」と言いました。
これはどういうことでしょう。
パウロは、人はそれぞれ欲に対する思いが違い、欲への強さ弱さが違っている。
そして全てにおいて自制する強さを人は持っていないということを知っていたからです。
パウロは、神さまならば、それすらもできるとは言いませんでした。
なぜならばパウロ自身が自分の弱さと戦っており、神さまにこれを取り去って下さるようにと何度も願ったのに、
神さまの答えは「あなたの弱さの内に私の恵みは十分だから」と言われた経験を持っていたからです。
私たちは弱さと戦っていかなくてはならないから、神さまが必要なのだということを忘れてはなりません。

 9つの御霊の実の学びはこれで終わりです。
御霊の実の鍵は、イエス・キリストの十字架です(24節)。
十字架を見上げて、「私の様々な情欲や欲望はすでにこの十字架につけてしまったのだ」と信じ、
御霊によって生きるのなら、「自制」を含め、この9つの御霊の実は必ずやあなた自身に結実していくことでしょう。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。