心の糧(礼拝説教)

 今週の礼拝

10月 4日(日)のプログラム

 1.奏楽・黙祷
 2.賛   美 ①みつにましてひとつの神(福音讃美歌272番)
         ②主われを愛す(福音讃美歌45番)
 3.聖   書 詩篇 73篇1~28節(聖書 新改訳2017)
 4.祈   祷 司会者
 5.主 の 祈 り 主の祈りⅡ
 6.賛   美 ③なし
 7.信 仰 告 白 使徒信条Ⅱ
 8.聖   書 ペテロの手紙Ⅰ 1章13~16節(聖書 新改訳2017)
 9.説   教 聖日礼拝メッセージ
          題:『聖なる者でなければならない』
           説教者:渡邉多実樹牧師
10.賛   美 ④私を祝して(福音讃美歌250番)
11.献   金
12.感 謝 祈 祷
13.頌   栄 ⑤父・み子・みたまの(インマヌエル讃美歌7番)
14.祝   祷
15.後奏・報告
         

10月 4日(日)のメッセージ

【聖日礼拝メッセージ】
  説教:『聖なる者でなければならない』
  聖書:ペテロの手紙Ⅰ 1章13~16節

  『「あなたがたは聖なる者でなければならない。
   わたしが聖だからである」と書いてあるからです。』
            (Ⅰペテロ 1:16)

 今月は「きよめ」について学んでいきます。「きよめ」とは、「聖なる者とされる」、つまり「罪を赦され救われたクリスチャンがその罪の性質をもきよくしてくださる神さまの業」のことです。
 聖書でははっきりと、私たちは「聖なる者でなければならない」(:16)と記されています。この言葉はその後に「…と書いてある」とあるように旧約聖書のレビ記(11:44等)からの引用で、神さまの直接的命令の形で記されています。つまりこれは、私たちに対する神さまの変わらない御心であるということです。「聖なる者となる」ことこそ、私たち信仰者の大きな目標なのです。今日は、この「聖なる者となる」ことについて学んでいきましょう。

 まず、「聖なる者でなければならない」ことの対象は、「あなたがた」(:16)とあります。あたながたとは、当然この手紙の宛先、「ポントス、…ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち」(:1)となりますが、著者ペテロはキリスト教会の代表として、当時のすべての信仰者に宛てて書いています。そして、聖書は時代や地域を越えますから、全世界のすべてのクリスチャンが対象となっています。誰か特別なクリスチャン、指導的なクリスチャン、あるいは牧師のような人たちだけではなく、すべてのクリスチャンが対象なのです。

 次に、「聖なる者でなければならない」ことの根拠は、「わたし(神さま)が聖だから」(:16)とあります。聖書では「聖(ハギオス:神聖な、きよい)」は「汚れ(アカサルシア:不潔、不道徳)」と対比され、相容れないものとなっています。神さまは聖だから汚れに触れることができません。ですから、神さまに従う私たちが汚れていたらどうでしょう。神さまは私たちに触れることができなくなってしまいます。神さまが聖だから、神さまに従う者も聖でなければならないとは、理に適っているのです。

 さらに、「聖なる者でなければならない」ことの程度は、「生活のすべてにおいて」(:15)とあります。「生活」と訳された言葉は原語のギリシヤ語では「アナストロフェー:行動、生き方」が用いられており、「すべて」は「パス:一つも欠けが無い全部」が用いられています。つまり、ちょっとだけ、あるいはある程度の範囲での聖なる者でなく、私たちが生きていくときのすべての行動において、また私たちの在り方すべてにおいて聖なる者でなければならないのです。

 ここまでくると、かなりハードルが高くなってしまっているかもしれません。しかし、ペテロはすべてのクリスチャンにこの目標を持って生きて欲しいと願っているのです。なぜなら、それこそ神の御心(Ⅰテサロニケ4:3)だからです。神さまは私たちに不可能なことを要求することはありません。すべてのクリスチャンに可能性があるからそれを求めておられるのです。低い目標なら、簡単かもしれませんが、人生をかけるほどのものとはなれません。高すぎず、低すぎない目標です。別の聖書の箇所では「キリストと同じ姿に変えられる」(ピリピ3:21)とあります。イエス・キリストの姿が目標です。ですからこの目標は、到達する目標ではなく、追求する目標です。日本人が得意な極める目標です。極めれば極めるほど奥が深い目標なのです。終わりがない目標ではなく、とても魅力的な目標なのです。次回は、この目標の極め方について学んでいきたいと思っています。

 パウロはクリスチャンをアスリートになぞらえました(Ⅰコリント9章)。私たちはキリスト教のアスリートです。聖なる者となる、という目標をまず持つことです。そして生涯をかけてこの目標を極めていくのです。それこそ神の御心に適った生き方であり、神に喜ばれる生涯なのです。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 

 過去の礼拝

 9月27日(日)

【オープン・チャペルメッセージ】-「聖書は救いの書」8
  説教:『聖書は希望の書』
  聖書:ローマ人への手紙 15章1~6節

 「聖書が与える忍耐と励ましによって、
  私たちが希望を持ち続けるためです。」
         (ローマ 15:4)

 聖書は分厚い本です。字は小さいし、内容的にも不可解な箇所もあるでしょう。聖書は難しくて分かりにくいものなのでしょうか。そして信じてよいものなのでしょうか。今年のオープンチャペルメッセージでは「聖書は救いの書」と題して語っていますが、今回はその8回目となります。聖書の魅力として、「親しみ学ぶことができる」こと、「預言の書だから暗い世のともしびとなる」こと、「神の霊感(息吹)によっていのちの書となった」こと、「私たちを教えるために書かれた」こと、「私たちを戒めるために書かれた」こと、「私たちを矯正するために書かれた」こと、「私たちを訓練するために書かれた」ことを見てきました。今回も、聖書の魅力について見ていきましょう。

 ここまで毎回、聖書が不思議な書であることも紹介してきましたが、その聖書を読むにあたって気をつけるべきことにも触れておきましょう。聖書は分厚い本だからこそ、様々ことが書かれています。ですから、ある聖書の一部分だけを取り出すことによって都合よく悪用することができてしまうのです。例えば、輸血や格闘技を禁ずる教えを聖書から作り出すことが可能です。しかし、それは聖書の教えではありません。神はただ一人なのだからキリストは神ではないと言うこともできます。しかし、それも聖書の教えではありません。神の裁きや地獄を強調し、人々の恐怖心をあおって信仰に導くこともできます。しかし、それも正しい聖書の教え方ではありません。聖書は旧約聖書と新約聖書で一つです。その聖書全体が何を言っているかに気をつけなければなりません。「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(使徒17:11)とあるように、聖書のことばは他の聖書のことばによって理解していく必要があるのです。  

 それでは聖書のローマ15章4節に目を向けましょう。ここに「聖書が与える忍耐と励まし」と記るされています。「忍耐」の意味は「こらえること、たえしのぶこと」(広辞苑)ですが、原語のギリシヤ語「ヒュポモネー」は、「災難に対し抵抗する不屈の勇気、屈辱に対し抵抗する不屈の辛抱」を表し、より強い意味となっています。今も昔も私たちは、災難や屈辱といった様々なストレスに抵抗する忍耐を必要としています。それを聖書が与えるのです。「励まし」の意味は「ある目的に向かって心を奮い立たせること」(広辞苑)ですが、原語のギリシヤ語「パラクレーシス」は、「口先だけの慰めではなく、相手に寄り添い祝福し奮い立たせる行動」を表し、こちらもより積極的な意味となっています。今も昔も私たちは、忍耐だけでは最後まで抵抗が難しいからこそ、適切な励ましによって奮い立たせてもらう必要があるのです。それを聖書が与えるのです。

 しかし、その忍耐と励ましも、希望がなければ全く意味がありません。私たちは聖書を通して、神さまが「忍耐と励ましの神」(:5)であることを知ります。神さまはいつでもわがままな人間に忍耐し励まし続けておられます。その神さまが、私たちの模範としてキリストを送ってくださいました。イエス様の生涯は、まさに忍耐の連続でした。イエス様の存在そのものが私たちにとって励ましとなります。その神さまは私たちを愛しておられ、そのイエス様が私たちの救い主となってくださいました。その事実により、私たちは「希望を持ち続ける」ことができるのです。これからも災難や屈辱がなくならないこの世だからこそ、聖書はそれに抵抗できる忍耐や励ましを与え、私たちは希望を持ち続けることができ、より強くなれるのです。

 私たちは、日々多くのストレスを抱えます。すぐ切れやすい時代です。だからこそ、いよいよ忍耐が必要です。私たちは、がんばってもなかなか報われないことが多いです。落ち込みやすい時代です。だからこそ、いよいよ励ましが必要です。しかし希望がなければ、その忍耐も励ましも効力を失います。イエス・キリストに希望があります。そのイエス様には、聖書を通してでなければ会うことはできません。ですから、聖書に親しんでください。そうすれば必ず「聖書はあなたの救いの書」になります。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 9月20日(日)

【聖日礼拝メッセージ】
  説教:『神は霊です』
  聖書:ヨハネの福音書 4章21~24節

   「神は霊ですから、神を礼拝する人は、
    御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
               (ヨハネ 4:24)

 今月は神さまについて学んでいます。先々週は「全知の神さま」、先週は「全能の神さま」、そして今日は「霊なる神さま」です。

 聖書では、「神は霊的存在である」という表現ではなく、「神は霊そのものである」という表現を使っています。聖書は神の定義を述べていませんが、神の定義に最も近い表現です。「霊」とは、日本語では「肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体」「はかり知ることのできない力のあること。目には見えない力のあること。またその本体」(広辞苑)という意味です。英語の聖書ではspiritと訳されています。soulでもなく、日本語のイメージに近いghostでもありません。あえて定義するなら、「神は物質を離れて存在する目に見えない精神的実体そのもの、またその根源」と言え、「霊こそ神」でしょうか。

 神さまが霊であるということは、神は世界(物質世界)からは区別されている存在だということです。これは神さまが空間によって制約されていないことで、無限であり、普遍であることです。このことによって、神さまはどこにでも存在できるのです。

 神さまが霊であるということは、神は目には見えないという存在だということです。神さまは私たちのような物質的な体を持っておらず、ゆえに私たちの肉体に持つ五感では感じとることができません。私たちの目で見ることも、手で触ることもできません。

 神さまが霊であるということは、神は人格を持っておられるという存在だということです。神は独自の意識を持ち固有の存在者です。神はその人格を通して、考え、感じ、行動されます。また神は愛し、憎み、論じ、命じ、与え、罰するお方なのです。

 この「霊なる神さま」は私たちにとってどんな意味があるのでしょう。まず、ヨハネ4章では、イエス様がサマリヤの女性に対して、私たち人間が礼拝する対象としての神さまを「神は霊です」と紹介されました。旧約聖書の時代は、霊なる神さまを礼拝するには不完全な時代でした。神殿でなければ神を礼拝できませんでした。直接神を礼拝できるのは、人の代表としての大祭司だけでした。しかしまことの大祭司(ヘブル4:14、7:26他)であるイエス様がこれら、もう一人の助け主である聖霊が私たちに与えられた(ヨハネ14:16、26他)ことによって、私たちも「御霊と真理によって礼拝するまことの礼拝者」になれたのです。そしてそのことは、霊なる神さまに私たちが近づくことができることをも意味します。「確信をもって大胆に神に近づくことができます」(エペソ3:12)。霊なる神さまですから、私たちがどこにいても神さまに近づくことがでます。霊なる神さまですが、私たちは御霊によって神さまを感じることができます。霊なる神さまは、御霊を通して、私たちに語り、私たちを導くことができるのです。

 そしてもう一つ、「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創世記1:27)、「神であられる主は、その大地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創2:7)とあるように、私たち人間は神から「いのちの息(霊)」が与えられ、精神的な存在でもあります。物質世界のみで生きていくと、人の精神性は脆弱です。ですから、本物の精神(霊)である「霊なる神さま」が必要なのです。私たちは神さまによって、霊性(精神性)を育てていくことができるのです。人のアイデンティティは神さまによって確立するのです。

 「霊なる神さま」だから、私たちは神さまを意識して信じることができます。「霊なる神さま」だから、私たちは神さまに意識してすべてを委ねることができます。「霊なる神さま」だから、いつでもどこでも私たちは神さまの助けを実感できるのです。「霊なる神さま」とともに歩む人生、これほど確かな人として人生は他にないのです。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 9月13日(日)

【聖日礼拝メッセージ】
  説教:『不可能なことがない神さま』
  聖書:詩篇 115篇1~18節

  「私たちの神は 天におられ
   その望むところをことごとく行われる。」
           (詩篇 115:3)

 今月は神さまについて学んでいます。先週は「全知の神さま」、今日は「全能の神さま」です。

 聖書には、『主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ…」』(創世記17:1)とあるように、神さまのことを59回も「全能の神」「全能の主」「全能者」として紹介しています。「全能」とは、「何事もできないことのないこと」(広辞苑)という意味ですから、神さまにはできないことが存在しないことを示しており、必然的に、神さまの能力は完全であることから「全能の神さま」と言われます。

 まず神さまは、完全な存在という意味で全能です。完全に独立しておられます。完全に自存しておられます。無限であられ、不変です。私たちは、決して一人では生きていけません。誰かに助けてもらわなくてはなりません。私たちは有限で、常に変化します。しかし神さまには、そんなことは一切ないのです。

 次に神さまは、完全な力を持つという意味で全能です。神さまは天地宇宙すべてを創造されました。神さまは天地宇宙すべてを統治されています。宇宙に始まりがあることは科学的に証明されています。宇宙は完全な秩序を持っていることも証明されています。科学は「神」を認めようとはしないでしょう。しかし、現代の科学の基礎のほとんどは「神」の存在を信じる科学者たちによって築かれてきたのも事実です。

 そして神さまは、完全に意志を遂行できるという意味で全能です。神さまは、いつでも、どこでも、どんなことでも、その意志することは何でも実行できるのです。私たちはしたくてもできないことだらけです。どんなにお金を持っていたとしても、できることは限られています。しかし、「神にとって不可能なことは何もありません」(ルカ1:37)。ただし例外があります。冒頭の言葉が表しているように、神さまが望まないことはできません。神さまは悪しきことはできません。嘘をつけません。約束を破ることはできません。ルールに反することもできません。それは能力的にできないのではなく、道徳的にできないのです。でもこれが最も大事なのです。したくないことをしてしまったら私たち人間と同じになってしまいます。したくないこと、意志に反することはできないという力がなければ「全能」とは言えないのです。

 この「全能の神さま」は私たちにとってどんな意味があるのでしょう。詩篇115篇では、この全能の神さまに対して、「信頼せよ」(:9,10,11)と命じています。全能の神さまを信じることが信仰の基礎でもあります。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった」(出エジプト6:3)とあるように、信仰の礎を築いたアブラハムは、「全能の神さま」を信じていたのです。この神さまが私たちを「盾となって助けてくださる」(:9,10,11)からです。神さまは全能の力で弱い私たちを守ってくださるのですから、こんなに力強いことはありません。「信頼してよい」のです。そして、この神さまが私たちを「祝福してくださる」(:12,13)からです。神さまは全能の力で私たちを祝福してくださると約束してくださるのですから、こんなに確かなことはありません。絶対に「信頼してよい」のです。

 「全能の神さま」だから、私たちは神さまを信じることができます。「全能の神さま」だから、私たちは神さまにすべてを委ねることができます。「全能の神さま」だから、どんな時でも私たちは神さまに助けていただけるのです。「全能の神さま」とともに歩む人生、これほど祝福された人生は他にないのです。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 9月 6日(日)

【聖日礼拝メッセージ】
  説教:『すべてをご存じの神さま』
  聖書:ヨハネの手紙Ⅰ 3章19~24節

  「神は私たちの心より大きな方であり、
   すべてをご存じだからです。」
        (Ⅰヨハネ 3:20)

 今月は神さまについて、いくつかのことを学んでいきます。今日は「全知の神さま」です。

 今日のみことばに、「神は…すべてをご存じ」(:20)とありました。この「すべて」はギリシヤ語では「pa/j :パス」という語で、「1つの欠けも無い全部」を意味していますから、神さまは知らないことが存在し得ないことを示しており、必然的に、神さまの知識は完全であることから「全知の神さま」と言われます。

 まず神さまは、ご自分のことを完全に知っておられます。私たちは、自分が何者なのか?でよく悩みます。しかし神さまにはそんなことは起きません。私たちは、自分の身体に起きていることもよく分からないことだらけです。自分がインフルにかかったのか、コロナにかかっているのかさえ、ほとんど分かりません。しかし神さまは、ご自分に関することで知らないこと、分からないことは一つもないのです。

 次に神さまは、ご自分が造られた被造物を完全に知っておられます。地球のすべてのみならず、全宇宙を造られたのが神さまです。ニュートンを初め、多くの科学者たちは、宇宙や自然界を通して神さまを知ることができるとの思いで観察研究して数々の法則を発見しました。私たちは自然界を通して、神さまが完全な科学者であり、完全な技術者であり、完全な芸術家であることを知ることができます。

 そして神さまは、私たち人間を完全に知っておられます。「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」(マタイ10:30)とあるように、すべての人のすべてを知っておられるのです。私たちの現在を知っておられるだけでなく、私たちの過去もすべてを完全な形で記憶しておられます。さらに、私たちの未来も完全な形で予知されます。これは運命論的な予知ではなく、完全な知識は完全な予知を可能とするという意味です。ですから、神さまの予知は私たちの行動の自由を拘束するものではないので、私たちは自分の自由意志を100%用いることができ、その結果として起こる将来のことを神さまは完全に知っておられるということなのです。

 この「全知の神さま」は私たちにとってどんな意味があるのでしょう。ある人々にとっては、神さまの全知は非常に都合が悪いものとなります。悪いことをしているからです。しかし信仰者にとっては、神さまの全知は「神の御前で心安らかでいられ」(:19)る理由であると言っています。「たとえ自分の心が責めたとしても」、「神は私たちの心よりも大きな方」なので、「安らかでいられ」(:20)るのです。神さまは私たちの弱さも知っておられるので、その大きな心で私たちを愛してくださっているからです。そして「自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つこと」(:21)さえでき、さらには「求めるものを何でも神からいただくこと」もできてしまうのです。ただし、「私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行って」(:22)いればの話です。でも、その「神の命令」とは「互いに愛し合うこと」(:23)であれば、良いこと尽くしではありませんか。

 「全知の神さま」だから、私たちは神さまを信じることができます。「全知の神さま」だから、私たちは神さまにすべてを委ねることができます。「全知の神さま」だから、どんな時でも私たちは神の御前で心安らかにいられるのです。「全知の神さま」とともに歩む人生、これほど確かな人生は他にないのです。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 8月30日(日)

【オープン・チャペルメッセージ】-「聖書は救いの書」7
  説教:『聖書は義の訓練の書』
  聖書:テモテへの手紙Ⅱ 3章14~17節

   「聖書はすべて神の霊感によるもので、
    教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」                                   (Ⅱテモテ 3:16)

 聖書は分厚い本です。字は小さいし、内容的にも不可解な箇所もあるでしょう。聖書は難しくて分かりにくいものなのでしょうか。そして信じてよいものなのでしょうか。今年のオープンチャペルメッセージでは「聖書は救いの書」と題して語っていますが、今回はその7回目となります。聖書の魅力として、「親しみ学ぶことができる」こと、「預言の書だから暗い世のともしびとなる」こと、「神の霊感(息吹)によっていのちの書となった」こと、「私たちを教えるために書かれた」こと、「私たちを戒めるために書かれた」こと、「私たちを矯正するために書かれた」ことを見てきました。今回も、聖書の魅力について見ていきましょう。

 それにしても聖書は不思議な書です。3月のオープン・チャペルでは、聖書の翻訳数は2800語にもなると言われ、世界中のほとんどの人が、普段自分が使っている言語で聖書を読むことができることを紹介しました。ここで、今日お越しの皆様がみな違う国の人として、みな違う言葉の聖書を持っていたとしましょう。私が「それではテモテへの手紙Ⅱ3章14~17節をお読みします」と言うと、皆様は一斉にご自分の聖書をぱっと開き、みな同じ箇所を開き、同じみことばを違う言語で読むことができるのです。聖書の66書すべてに章があり、節が付けられ、すべての言語の聖書に共通の章と節が付けられているからです。もともと聖書の原典には章も節もありませんでした。しかし、聖書を読む人が時々迷子になってしまうことがありました。そこで、迷子にならないため番地の役目として便宜的に章と節が付けられるようになったのです。章は1300年代に、節は1500年代に付けられ、今に至っています。そのお陰で、今私たちは、迷わず聖書を読むことができるのです。ところで聖書をイッキ読みするのはまず無理です。多くの場合、通読という手法をとります。その時にもこの章と節が大いに活躍します。私たちの教会でも、表に従って毎日順番に十数節づつ読む進めていく「デボこん」という活動をしています。聖書ならではの読み方です。

 それでは聖書のⅡテモテ3章16節に目を向けましょう。今月は4番目の「義の訓練のためのもの」との記述です。

 「訓練」の意味は「実際にある事を行って習熟させること。一定の目標に到達させるための実践的教育活動」(広辞苑)ですが、原語のギリシヤ語「パイデイア」も、訓練、訓育の意味で、ほぼ日本語と同じ言葉と言えます。私たちは様々なことを教え、戒められ、また矯正してもらっていますが、それを本当に自分のものとするためには、訓練して身につけなければなりません。アスリートも技術者も芸術家も、訓練を怠るとその能力は衰えてしまいます。意味として「実際にある事を行って習熟させること」とあったように、知識だけでなく、行動することによってそれを会得しなければならないのです。

 「義」の意味としては、いくつかある中に「キリスト教で、神の正しさ。また人の、神の前の正しさ」(広辞苑)と記されていました。原語のギリシヤ語「ディカイオスネー」も、パウロは「神の義」と「(人の)信仰による義」という2つの意味合いでよく使い、日本語の辞書は適切に説明しています。不完全な人の前の正しさではなく、完全な神の前の正しさがあるのです。アスリートも技術者も芸術家も、その世界を極めようとします。私たちは人として義を極めることが人生の目標でもあるのです。

 そして「義の訓練のための聖書」の意味となると、「神の正しさを規範として、人が神の前で正しくあるという目標に到達するために、実践的に習熟させる働きをするのが聖書である」ということです。人は普通、正しくありたいと思っています。いつでも正しい言動のできる者でありたいと思っています。しかし、パウロが言うように「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています」(ロマ7:19)のが私たちの実際です。神さまは私たちに正しくあってもらいたいと願っておられます。ですから私たちに聖書を与えてくださいました。聖書は、私たちを神の前で正しい者とするために書かれた書なのです。聖書による義の訓練によって、私たちは「すべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となる」(:17)のです。

 聖書によって義の訓練を受けましょう。実際に聖書に従って義を習熟していきましょう。そうすれば必ず「聖書はあなたの救いの書」になります。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 1月 1日(水)

【元旦礼拝メッセージ】
  説教:『御霊と真理によって礼拝する』
  聖書:ヨハネの福音書4章19~26節

   「神は霊ですから、神を礼拝する人は、
    御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
                (ヨハネ 4:24)

 明けましておめでとうございます。新しい一年の始まりに、まず神さまのもとに来て礼拝を捧げできる恵みを感謝したいと思います。

 昨年の元旦礼拝では、イザヤ書43章のみことばから「私たちは神さまに愛されているものなのだから、恐れることなく進もう。」と語らせていただきました。新しい年、2020年を迎えたこの朝は、ヨハネの福音書より「私たちを愛してくださっている神さまを、精一杯礼拝してゆく」ということに目を向けたいと思います。

 私たち信仰者はまず礼拝者でなければなりません。それは、神さまとの関係がしっかりと築くことがすべての歩みの前提だからです。聖書をどんなに学んでも、お祈りをささげても、伝道しても、献金しても、ちゃんとした礼拝が神さまに捧げなられていなければ、それらはほとんど意味がなくなってしまいます。礼拝という語はギリシャ語で見ると「プロス:そばに、近くに」と「クネオー:口づけする」という2つの語が合わさった熟語が使われています。これは礼拝者が神さまを前にして跪き地にひれ伏す様子から来たと考えられています。本来、礼拝とは神さまに対してひれ伏すことなのです。ところがイエス・キリストは、「まことの礼拝者は御霊と真理によって礼拝する」(23節)と言われました。この言葉は、イエス様の旅の途中に出会ったサマリア人の女性が、正しい礼拝の場所はサマリアか、それともエルサレムかと尋ねた質問の答えです。この答えには、あなたがたは形式を重んじる礼拝を捧げているが、本当の礼拝は形式よりも礼拝者の心が重要だ、という意味が込められているのです。

 「御霊によって礼拝する」とはどういうことでしょう。それは、御霊の支配の中で礼拝するということです。私たちが御霊なる神様に覆われている状態がイメージされています。御子なる神さまがおいでになった今、これからはそれが出来るようになったと、イエス様は宣言されました。私たちは父なる神様が求めておられるまことの礼拝者になることが出来るのです。聖霊は私たちの助け主として来て下さいました。私たちは身も心も、聖霊によって守られ、聖霊に覆われ、聖霊に支配されることが出来ます。私たちはその状態を経験し、その状態を意識して礼拝するとき、まことの礼拝者とされるのです。

 「真理によって礼拝する」とはどういうことでしょう。それは、真理の支配の中で礼拝するということです。私たちが真理に生きている者である状態がイメージされています。今日の記事のもう一つのテーマは「救い」です。ですからイエス様が「真理」と言われたとき、それは「救いの真理」の意味合いが強くなります。私たちにはその真理、救いが与えられています。そしてこの真理の中で礼拝するのです。そのためには、この救いを経験し、この救いに生きてるいことが必要となります。私たちは、自分を救ってくださった神さまの大きな恵みを何度も何度も思い起こし、また聖書を通してさらに救いの恵みを学び、これからもずっと救われた者として歩んでゆくのです。そうすることによって私たちは、深い神さまの真理に生きる者になってゆくのです。人と比べる必要はありません。神さまは一人ひとりを見ておられます。

 最後に、礼拝は形以上に心が必要だと申しました。それは忙しい日本にいる私たちには、クリスチャンのほとんどいない日本にいる私たちには大きな恵みです。たとえ礼拝のために日曜日を休めなかったとしても、仕事をしなければならないときも、用事をこなさなければならないときも、教会だけが礼拝の場所ではありません。私たちはどこででも礼拝を捧げることが出来るのです。たとえ時間を沢山とれなかったとしても、礼拝には最低でも1時間は必要ということはありません。私たちは短時間でも礼拝を捧げることが出来のです。私たちは今年、御霊によって、真理によって、まことの礼拝者とならせていただきましょう。

 新しい一年に神さまの祝福をお祈りいたします。