心の糧(礼拝説教)

 今週の礼拝

 8月 2日(日)のプログラム

 1.奏楽・黙祷
 2.賛   美 ①たたえよ主の民(福音讃美歌269番)
         ②主は谷のゆり(福音讃美歌35番)
 3.聖   書 詩篇 64篇1~10節(聖書 新改訳2017)
 4.祈   祷 司会者
 5.主 の 祈 り 主の祈りⅡ
 6.賛   美 ③なし
 7.信 仰 告 白 使徒信条Ⅱ
 8.聖   書 マタイの福音書 7章1~12節(聖書 新改訳2017)
 9.説   教 聖日礼拝メッセージ
          題:『してもらいたいことをする(黄金律)』
           説教者:渡邉多実樹牧師
10.賛   美 ④主の強い御腕(福音讃美歌345番)
11.献   金
12.感 謝 祈 祷
13.頌   栄 ⑤父・み子・みたまの(インマヌエル讃美歌7番)
14.祝   祷
15.後奏・報告
         

 8月 2日(日)のメッセージ

【聖日礼拝メッセージ】
  説教:『してもらいたいことをする』
  聖書:マタイの福音書 7章1~12節

   「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、
    あなたがたも同じように人にしなさい。
    これが律法と預言者です。」
                  (マタイ 7:12)

 新型コロナウイルスもなかなか収束しません。それでも日本では爆発的に感染が拡大することは免れています。その背景には、マスク着用や3密の徹底が効果を表しているようです。そしてそこには、自分がウイルスに感染しないためだけでなく、他の人にうつさない配慮があると言われています。私たちの多くは、小さい頃から人に迷惑をかけないことを教えられて育ってきましたが、それが活かされているのかもしれません。ところで聖書は信仰の手引きでもあり、神と人との関係に重点が置かれていそうですが、実は、人と人との関係の方により重点が置かれている書です。例としてモーセの十戒を見てみると、10の戒め中6つが人間関係における戒めであることにも、そのことが表れています。今日はマタイ7章12節のみことばから、イエス様が教えられた黄金律を学びます。

 「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じようにしなさい」という黄金律は、古今東西を問わない普遍的な倫理・道徳の原理です。これに対し、「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」という孔子の論語での教えは、白銀律とも呼ばれています。日本人はこちらの影響を受けていると言ってよいでしょう。その違いは、積極的か消極的かの違いです。イエス様は、「これが律法と預言者です」との表現でこれが旧約聖書の教えであるとも言っておられます。しかし旧約聖書に精通しているユダヤ教のラビたちは、「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな」(パリサイ派のラビ・ヒルレル)と、やはり消極的でした。しかしイエス様は、(お節介になるかもしれないが)より積極的に行動しなさいと教えているのです。その一歩の飛躍が、困っている人を救うことにもなることを「良きサマリヤ人のたとえ」(ルカ10:30~35)で語っておられます。この黄金律は、実践して初めて意味があります。まず身近な人に実践してみてください。必ず効果が現れてくるはずです。

 しかし、この積極的実践を妨げるものがあります。損得勘定です。最初はいいのですが、そのうち自分だけが何か損をしているように感じてきてしまいます。また「何でも」ということにも抵抗が起きてきます。すると次第に消極的になってきて、迷惑をかけないほとほどの行動に落ち着いてしまうのです。犠牲的精神だけでは長続きしそうもありません。どうしたら良いのでしょうか。ヒントは12節の冒頭「ですから」という接続詞です。この黄金律は、前の節を受けての教えなのです。前の節11節では何が教えられていたでしょうか。天の父なる神さまが、求める私たちに良いものを与えてくださる、ということです。人に対して損得勘定をすると自分が損をしているように見えます。しかし、神さまに対して損得勘定をすれば決して損はしていないのです。私たちは人に求めるのではなく、神さまに求めるようにとイエス様は教えておられるのです。神さまに良いものを与えられた経験が黄金律を実践させる原動力となるのです。

 神さまと良い関係を持っている人が、人とも良い関係を持つことができる。これこそが聖書が一貫して教えてきたことです。信仰は決して現実離れしたものではなく、信仰こそ現実を生きる成功の秘訣なのです。まず人にではなく、神さまに求めましょう。すると、天におられる私たちの父なる神さまは、求める私たちに良いものを与えてくださいます。ですから、人からしてもらいたいことは何でも、私たちも同じように人にすることができるのです。より積極的な一歩の飛躍を、神さまとの関係によって踏み出しましょう。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 

 過去の礼拝

 7月26日(日)

【オープン・チャペルメッセージ】-「聖書は救いの書」6
  説教:『聖書は矯正の書』
  聖書:テモテへの手紙Ⅱ 3章14~17節

   「聖書はすべて神の霊感によるもので、
    教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」
                    (Ⅱテモテ 3:16)

 聖書は分厚い本です。字は小さいし、内容的にも不可解な箇所もあるでしょう。聖書は難しくて分かりにくいものなのでしょうか。そして信じてよいものなのでしょうか。今年のオープンチャペルメッセージでは「聖書は救いの書」と題して語っていますが、今回はその6回目となります。聖書の魅力として、「親しみ学ぶことができる」こと、「預言の書だから暗い世のともしびとなる」こと、「神の霊感(息吹)によっていのちの書となった」こと、「私たちを教えるために書かれた」こと、「私たちを戒めるために書かれた」ことを見てきました。今回も、聖書の魅力について見ていきましょう。

 それにしても聖書は不思議な書です。先月は日本において普段の生活で使われるようになった聖書のことばを紹介いたしましたが、私たちの目に付くところに刻まれている聖書のことばの例として、ニューヨークの国連本部ビルの前に設置されたモニュメントには「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」というイザヤ書2章4節の言葉が刻まれています。戦いのない平和な世界を目指す思いを伝えようとしています。また日本においては、国会図書館東京ホールの頭上に「真理がわれらを自由にする」というヨハネの福音書8章35節からの引用の言葉が日本語とギリシヤ語を併記して刻まれており、その確信によって日本の民主化と世界平和とに寄与することが使命であると国会図書館法にも定められています。どちらも理想的な平和な社会を表す言葉として聖書を引用しているのです。国際社会や日本の社会にも聖書は少なからず影響を与えてきたのです。

 それでは聖書のⅡテモテ3章16節に目を向けましょう。ここで聖書は「矯正のためのもの」と記されています。「矯正」の意味は「欠点をなおし、正しくすること」(広辞苑)ですが、原語のギリシヤ語「エパノルソーシス」は、曲がったものを真っ直ぐに伸ばしたり、崩れたものを元通りにするときに使う「アノルソオー」の派生語で、「矯正、改善、修復」の意味を持ちます。私たちは様々なことを教え、戒められてもらっていますが、ときにそれが歪んでしまったり、崩れてしまったりしてしまいます。私も最近よく指摘されるのが、敬語の使い方です。「~させていただきます」をよく使うのですが、「お」や「ご」の敬語と一緒に使ってしまい二重敬語になってしまったり、おかしな使い方をしてしまううことがよくあります。改めて日本語の敬語は使い方はとても難しく、常に正していかねばならないことを感じていますが、同じように私たちの心も、正しいと思っていてもちょっとおかしかったり、歪んでしまったりしているとき、「矯正」が必要です。今月の礼拝の講壇は「信仰の改善」がテーマでしたが、信仰にも「改善」が必要なのです。災害の多い日本では、被災からの復興には、まず崩されてしまったインフラなどの修復が最優先でなされます。私たちの心や思い、思想や観念、そして信仰も、人生の問題や課題、人生を揺るがす災いに遭ったとき、真っ直ぐだったものが曲げられてしまったり、立っていたものが倒されたり、建てられていたものが崩されてしまったりします。それらを「修復」してくれるのが聖書なのです。

 また聖書は「矯正のために有益です」とも記されています。私たちは矯正を必要としていますが、私たちは何が正しいのか本当には分かっていません。時代の流れによって変わってしまう正義や、国や文化で変わってしまう価値観では、ちゃんとした矯正はできません。しかし、国連のような国際的に理想の平和社会実現のために聖書のことばが選ばれていたり、日本でも国会図書館で使われていたりする事実は、聖書の有益性を証明しています。2000年間変わることなく受け継がれてきた聖書は、普遍的な正義や価値観を人類に与えてきました。そして聖書は一人ひとりの人生にも有益であることは言うまでもありません。私はどれほど聖書に助けられてきたことでしょう。クリスチャンたちは皆、この聖書によっていつも人生を建て直してきたのです。

 聖書は、私たちの人生のための揺るぎない正義、指針、規律です。聖書の矯正に耳を傾けましょう。聖書の矯正に従いましょう。聖書に矯正していただきましょう。そうすれば必ず「聖書はあなたの救いの書」になります。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 7月19日(日)

【聖日礼拝メッセージ】
  説教:『彼が神に信頼していたから』
  聖書:創世記 28章10~22節

    「ダニエルは穴から引き上げられたが、
     彼に何の傷も認められなかった。
     彼が神に信頼していたからである。」
          (ダニエル 6:23)

 7月の講壇では、信仰のステップアップに注目しています。ここ日本では、クリスチャンの数は全体の1%にも満たないと言われます。この国でキリスト教信仰を培っていくことは、簡単なことではありません。仕事をしていれば日曜日に礼拝を守ることも容易ではありません。キリスト教国のクリスチャンに比べ、私たちは過酷な信仰環境の中に置かれていると言っても過言ではないでしょう。先週はヤコブという人物の実例を通して、一人になって神さまを経験する大切さを見ました。今週はそれに続き、もう一人の実例を通して、過酷な環境の中での信仰に必要なことを学んでいきましょう。

 今日の主役はダニエルです。先週ヤコブとダニエルの間には1200年以上の歴史の経過があります。ダニエルは貴族の一人でしたが、少年期の紀元前605年、バビロンの王ネブカドネツァルによって、イスラエルからバビロンに連れ行かれ王に仕えさせられました。彼は王の夢を解き明かしたことによって評判を得、その有能さのゆえに、バビロン帝国の王ネブカドネツァルとベルシャツァル、ペルシア帝国の王ダレイオスの治世に要職に就いていました。また彼はエゼキエル書14章14節でノア、ヨブと共に義人に数えられています。

 彼の信仰の特徴は何でしょうか。まず一つ目は、「異国・異教の環境下における信仰」です。彼は若くしてバビロンに連れて来られ、異教の風習の中で信仰を育まなければなりませんでした。私たちの置かれている日本も、異教の風習が根強い環境です。しかし、この過酷な環境下だからこそ育まれる立派な信仰があるのです。彼の信仰の特徴二つ目は、「異教・敵意に負けない信仰」です。彼の成功をねたみ失脚を目論むむ政敵が、彼の信仰を標的にした企てをしてきましたが、彼は負けませんでした。敵を恐れず普段通り、以前からしていたように(:10)、神さまに祈ったのです。イエス様がおっしゃておられるように、たましいを殺せない者を恐れなかったのです(マタイ10:28)。彼の信仰三つ目は、「置かれた環境に順応した信仰」です。10節に彼の信仰の日課が記されていますが、このエルサレムに向けての祈る行為は、400年ほど前にソロモンが予見して祈った捕囚先の敵国での信仰の営みでした(Ⅰ列王8:48)。彼はこのソロモンの祈りを知っていて忠実に行っていたのです。日に三度の祈る行為は、ダビデが実践していた、夕べに朝に真昼に祈っていた行為(詩55:17)に倣ったものです。彼は自分の置かれた環境において、どのように信仰を育むかを聖書から導き出して実践していたのです。

 彼の信仰の秘訣は何でしょうか。その一つ目は、「神への信頼」(:23)です。ある意味その環境下において、ダニエルには神さましか信頼できるお方はいなかった、と言っても過言ではないでしょう。100%の信頼は人にはできないことでしょうが、それに近づけていくことが必要です。私たちの置かれている環境で、本当に信頼できるお方は誰でしょう。神さましかおられないではありませんか。彼の信仰の秘訣二つ目は、「すぐれた霊が宿っていた」(:3)ことです。これは、彼が際立って秀でており、忠実で、何の怠慢も欠点も見つけられなかった理由として記されています。彼の素質に加え、神さまからの特別な霊が彼を助けていました。私たちにとってすぐれた霊は聖霊です。またしても、そしてどうしても信仰の秘訣は、聖霊に帰結します。なぜなら、神さまは私たち異邦人クリスチャンを多大に意識して、聖霊を与えてくださったのです。過酷な環境の中に置かれるであろう、異邦人クリスチャンを助けるために、助け主なる聖霊を宿らせてくださるのです。

 日本に置かれ、多忙の中に置かれている私たち。弱気になる必要はありません。神さまを信頼し、聖霊に満たされているとき、この環境下でも信仰を育み、ステップアップさせることは十分に可能です。信じて進みましょう。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 7月12日(日)

【聖日礼拝メッセージ】
  説教:『主はこの場所におられる』
  聖書:創世記 28章10~22節

   「ヤコブは眠りから覚めて、言った。
    「まことに主はこの場所におられる。
    それなのに、私はそれを知らなかった。」」
             (創世記 28:16)

 先週の講壇では、信仰の世界における「改善」に目を向け、信仰のステップアップを心掛けること語りました。今秋はそれを受け、ヤコブという人物の実例を通して、信仰のステップアップに必要なことを学んでいきましょう。

 ヤコブは偉大な信仰の父と言われるアブラハムの孫です。ヤコブは、祖父アブラハムと父イサクの信仰を間近に見ながら育ちました。そんな彼は、祖父や父に与えられていた神さまの祝福をどうしても欲しいと思い、双子の兄エサウからは弱みにつけ込んで長子の権利を、父イサクからは身を偽って神の祝福の祈りをだまし取りました。このことは、当然兄エサウの恨みを買い(27:41)、ヤコブは数百キロ離れたハランへ嫁を探しに行くという口実のもと家を出なければならなくなりました。その途中の出来事が今日お読みした箇所です。旅の途中、石を枕に野宿したとき、天から地に立てかけられた梯子を上り下りしていた神の使いの夢を見、そこで彼は、神さまからの祝福と約束のことばを直接いただきました。眠りから覚めたヤコブは、「まことに主はこの場所におられる」(:16)と悟り、その場所をベテルと名付け、神さまと契約を結びました。後に彼はイスラエルと名乗ることになりますが、このベテルでの経験こそ彼の信仰のステップアップの契機でした。彼の身に何が起こったのでしょうか。

 まず彼の身に起きたものの一つ目は、「主は私の神となった」(:21)ことです。それまで、「父アブラハムの神、イサクの神、主であ」(:13)ったお方が、自分の神さまとなったのです。きっかけは彼の悪巧みでしたが、父のもとを離れ一人になることを余儀なくされたことが、功を奏した形となりました。私たちはいつも問いかけねばなりません。自分にとって神さまは、本当に「私の神」となっているのかと。クリスチャン2世たちにとっては、父や母の神さまだったりすることが多いのですが、そうでない方々にとっては、妻の神さまだったり、夫の神さまだったり、○○さんの神さまだったり、時には、○○牧師の神さまだったりすることがあります。その状態でも多くの祝福はありますが、主なる神さまは「あなたの神」になってくださるお方です。

 次に彼の身に起きたものの二つ目は、「主はこの場所におられる」(:16)ことを自覚したことです。これは、主なる神さまの臨在に触れた経験と言い換えることができます。神さまは遍在しておられるお方ですし、インマヌエル(「神は私たちとともにおられる」の意)の神さまでもあられますから、主はどこにでもおられるのですが、ヤコブはそこに石の柱を立てて記念の塚とした(:18)ように、神さまに触れられた特別の場所(経験)であり、信仰のステップアップの場所でもあったのです。毎日神さまの臨在に触れられた言うことないのかもしれませんが、特別な経験としての塚はたくさんありすぎても意味が薄れます。私たちの信仰生涯において、この特別な神経験が必要となってくるのです。

 このような信仰のステップアップは、どのようにしたら得られるのでしょうか。ヤコブの場合は、予期せぬ時でありました。得てしてそのような形が多いのですが、大切なのは「祈り待ち望む」ことです。ヤコブは前述のように、神さまの祝福をどうしても欲しいと思っていました。親を騙したことは良くないことではありましたが、神さまの祝福の価値をよく知っていたことは事実でした。方法は間違っていましたが、求める気持ちはそれほど強かったのです。私たちは正しい方法を知っています。神さまに祈り求めることです。そして日々欠かさず求める祈りをしつつ、特別な経験には神の時がありますので、それを待ち望み続けることなのです。神さまは、その祈りを聞き、神の時に合わせて私たちに触れてくださいます。その時神さまは、「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたを決して捨てない」(:15)と必ず約束してくださいます。今日も神さまを求め待ち望みましょう。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 7月 5日(日)

【聖日礼拝メッセージ】
  説教:『さらに大きなわざを行います』
  聖書:ヨハネの福音書 14章6~17節

  「まことに、まことに、あなたがたに言います。
   わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、
   さらに大きなわざを行います。
   わたしが父のもとに行くからです。」
             (ヨハネ 14:12)

 コロナ禍がなかかな収束しない状況や、九州地方を襲っている豪雨の災害のニュースに心を痛める私たちです。主に祈り続けていきたいと思いますが、そんな中、一つ晴れやかな気持ちにしてくれるニュースが先週ありました。新幹線の新型N700Sが走り出したというニュースです。13年ぶりにフルモデルチェンジということですが、見た目はさほど変わっていないように見えますが、先頭車両の形状や、新しい技術が導入され、乗り心地が大幅に改善されたということです。乗ってみれば分かる、とかなりの自信作のようです。今までのものでも、他の国の車両に比べ十分すぎるほどの揺れの少なさでしたが、さらに上を目指しています。この「改善」こそ日本らしさであり、日本の発展に大きく貢献してきました。日本の製造業で行われる活動や戦略は「カイゼン」や「Kaizen」として世界で通用する言葉となっています。

 私たち日本人には、より良いものをもとめ、より良くしてきました。それでは、信仰の世界には「改善」はないのでしょうか。私たち信仰者は、今のままで良いのでしょうか。私たちの信仰に、改善の余地はないのでしょうか。普段教会では、信仰の成長に関して語ってきていますが、この成長に改善は欠かせません。日本人クリスチャンは、この得意の「改善」によって、信仰を成長させていくことができるはずなのです。今日は、ヨハネの福音書のイエス様のことばから、「信仰の改善」ということに目を向けていきましょう。

 まず12節に信仰者は「わたしが行うわざを行う」と記されています。「主のわざ」とは何でしょうか。この前の部分で、イエス様は「わたしを信じなさい」と何度もおっしゃっています(:1,10,11)。6章29節では、「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです」と教えておられます。主のわざとは、イエス様が父なる神さまを信じて行動したように、私たちがイエス様を信じて行動すること、なのです。イエス様は、「道であり、真理であり、いのち」なのです(:6)。道は神さまに到達する手段であり、真理は神さまに到達する規範であり、いのちは神さまに到達する原動力です。それがイエス様です。私たち信仰者は、イエス様がいないと何もできませんが、イエス様がおられれば主のわざを行うことができるのです。しかし、イエス様を信じることは簡単なようで、そうではありません。ピリポに対してイエス様は、「こんなに長い間一緒にいたのに、まだわたしを信じられないのか」としかっておられます(:9,10)。イエス様こそ、道であり、真理であり、いのちであることを疑いなく信じていきたいものです。

 さらに12節には信仰者は「さらに大きなわざを行う」と記されています。この「さらに大きな主のわざ」とは何でしょうか。この後の部分で、イエス様は「わたしを愛しなさい」と何度もおっしゃっています(:15,21,23,24)。「信じること」から「愛すること」にステップアップしていると見ることができます。さらに大きな主のわざとは、イエス様を信じて行動することから、さらにイエス様を愛して行動することに変えていくことです。イエス様が神さまを愛して行動したように、私たちがイエス様を愛して行動すること、なのです。21章には、復活後のイエス様がペテロに対して、「わたしを愛していますか」と問われます。この愛は、アガペー(神の愛)です。相手の存在のすべてを受け入れる愛です。見返りを求めない無償の愛です。そのために必要なのは、聖霊です。私たちがさらに大きなわざを行うため、イエス様は父のもとに行き(:12)、代わりにもう一人の助け主なる真理の御霊を与えてくださったのです(:16,17)。聖霊が私たちのうちにおられるとき、私たちはイエス様を本当に愛することができるようになります。

 私たちの信仰がより良いものとなるために、まず自分の信仰を見つめ直してみましょう。イエス様を本当に信じているのか。その信仰に不十分な所がないか。イエス様を本当に愛しているのか。その愛に不十分な所がないか。改善すべき所を見つけたら、正す所は正し、必要なものがあれば、それを祈り求めましょう。「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」(:13)。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 6月28日(日)

【オープン・チャペルメッセージ】-「聖書は救いの書」5
  説教:『聖書は戒めの書』
  聖書:テモテへの手紙Ⅱ 3章14~17節

 「聖書はすべて神の霊感によるもので、
  教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」
             (Ⅱテモテ 3:16)

 聖書は分厚い本です。字は小さいし、内容的にも不可解な箇所もあるでしょう。聖書は難しくて分かりにくいものなのでしょうか。そして信じてよいものなのでしょうか。今年のオープンチャペルメッセージでは「聖書は救いの書」と題して語っていますが、今回はその5回目となります。聖書の魅力として、1回目は、「親しみ学ぶことができる」ことを、2回目は、「預言の書だから暗い世のともしびとなる」ことを、3回目は、「神の霊感(息吹)によっていのちの書となった」ことを語らせていただきました。前回の4回目は「私たちを教えるために書かれた」ことでした。今回も、聖書の魅力について見ていきましょう。

 それにしても聖書は不思議な書です。日本人にはあまり馴染みのない本と思われていますが、意外にも私たちが普段使っている慣用句などに聖書からのことばがあります。例えば、「目から鱗が落ちる」は使徒9章18節「するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった」から使われるようになりました。また「豚に真珠」もマタイ7章6節「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります」からです。その他にも「七転び八起き」(箴言24:16)や「笛吹けど踊らず」(マタイ11:17)、「働かざる者食うべからず」(Ⅱテサ3:10)などもそうです。小説家や学者、政治家などの知識人が好んで使ってきた聖書のことばが、日本人の普段の生活にも使われるようになり、日本語として定着してきたものが少なからずあったのです。聖書は日本の文学、文化、国語に影響を与えてきたのです。

 それでは聖書のⅡテモテ3章に目を向けましょう。ここで聖書は「戒めのためのもの」(16節)と記されています。「戒め」の意味は「(禁じられていることを)教えさとし慎ませること。過ちのないように注意すること。」(広辞苑)ですが、原語のギリシヤ語も日本語の「訓戒」に近い言葉が使われています。私たちは様々なことを教えてもらっていますが、ときにそれを間違って解釈してしまったり、間違って使ってしまっていたりすることがあります。先日も、ある人が四字熟語の読み方を間違っていたので、正しい読み方を教えてあげたら、私の方が間違っていたなんてことがありました。とても恥ずかしい思いをしてしまいました。言葉の間違いは恥をかくだけで終わることがあるかもしれませんが、行動の間違い、あるいは生き方の間違いは人生における大損失です。聖書は特に、私たちの行動や生き方の間違いを戒めてくれるのです。それが間違っていることを指摘し、丁寧に教え諭し、戒めてくれる存在はとても貴重です。それが人生の生き方に関するものであれば、なおさら貴重であり宝です。冒頭にあげた日本語の慣用句にもなっている聖書のことばなどには、人生訓みたいなものも多いです。聖書は「戒め」の書ですから、日本語にも取り入れられてきたのです。

 また聖書は「教えのために有益です」(16節)とも記されています。私たちは戒めを必要としていますが、先ほどの私の大失敗のように、その戒めの方が間違っていたら、かえって有害なものになってしまいます。また、その戒めが外国人には有益だけど、日本人には当てはまらない、なんてことがあってもいけません。聖書がそれでは困りますが、聖書は戒めのために有益であると言います。それも先ほどの日本語になった聖書のことばが証明しています。日本人にも有益だからこそ、普段の生活にも使われるようになってきたのです。そして聖書は「神の霊感による」(16節)ものだから有益なのです。神の息吹によって生きた言葉となった聖書が、無益や有害なものになるはずがありません。神さまが私たちを訓戒してくれるのです。「その考え方、生き方は間違っていないですか。正しい考え方、生き方はこうだけど、頷けますか。あなたもこちらの方が正しいと思えるでしょう。だったらそのように代えてみなさい。そうすればあなたの人生は変わります」と、神さまは私たちを戒めてくれるのです。

 聖書は、私たちの人生における有能な師、教師、指導者です。聖書の戒めに耳を傾けましょう。聖書の戒めに従いましょう。聖書の戒めに生き続けましょう。そうすれば必ず「聖書はあなたの救いの書」になります。

 礼拝の祝福をお祈りいたします。

 1月 1日(水)

【元旦礼拝メッセージ】
  説教:『御霊と真理によって礼拝する』
  聖書:ヨハネの福音書4章19~26節

   「神は霊ですから、神を礼拝する人は、
    御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
                (ヨハネ 4:24)

 明けましておめでとうございます。新しい一年の始まりに、まず神さまのもとに来て礼拝を捧げできる恵みを感謝したいと思います。

 昨年の元旦礼拝では、イザヤ書43章のみことばから「私たちは神さまに愛されているものなのだから、恐れることなく進もう。」と語らせていただきました。新しい年、2020年を迎えたこの朝は、ヨハネの福音書より「私たちを愛してくださっている神さまを、精一杯礼拝してゆく」ということに目を向けたいと思います。

 私たち信仰者はまず礼拝者でなければなりません。それは、神さまとの関係がしっかりと築くことがすべての歩みの前提だからです。聖書をどんなに学んでも、お祈りをささげても、伝道しても、献金しても、ちゃんとした礼拝が神さまに捧げなられていなければ、それらはほとんど意味がなくなってしまいます。礼拝という語はギリシャ語で見ると「プロス:そばに、近くに」と「クネオー:口づけする」という2つの語が合わさった熟語が使われています。これは礼拝者が神さまを前にして跪き地にひれ伏す様子から来たと考えられています。本来、礼拝とは神さまに対してひれ伏すことなのです。ところがイエス・キリストは、「まことの礼拝者は御霊と真理によって礼拝する」(23節)と言われました。この言葉は、イエス様の旅の途中に出会ったサマリア人の女性が、正しい礼拝の場所はサマリアか、それともエルサレムかと尋ねた質問の答えです。この答えには、あなたがたは形式を重んじる礼拝を捧げているが、本当の礼拝は形式よりも礼拝者の心が重要だ、という意味が込められているのです。

 「御霊によって礼拝する」とはどういうことでしょう。それは、御霊の支配の中で礼拝するということです。私たちが御霊なる神様に覆われている状態がイメージされています。御子なる神さまがおいでになった今、これからはそれが出来るようになったと、イエス様は宣言されました。私たちは父なる神様が求めておられるまことの礼拝者になることが出来るのです。聖霊は私たちの助け主として来て下さいました。私たちは身も心も、聖霊によって守られ、聖霊に覆われ、聖霊に支配されることが出来ます。私たちはその状態を経験し、その状態を意識して礼拝するとき、まことの礼拝者とされるのです。

 「真理によって礼拝する」とはどういうことでしょう。それは、真理の支配の中で礼拝するということです。私たちが真理に生きている者である状態がイメージされています。今日の記事のもう一つのテーマは「救い」です。ですからイエス様が「真理」と言われたとき、それは「救いの真理」の意味合いが強くなります。私たちにはその真理、救いが与えられています。そしてこの真理の中で礼拝するのです。そのためには、この救いを経験し、この救いに生きてるいことが必要となります。私たちは、自分を救ってくださった神さまの大きな恵みを何度も何度も思い起こし、また聖書を通してさらに救いの恵みを学び、これからもずっと救われた者として歩んでゆくのです。そうすることによって私たちは、深い神さまの真理に生きる者になってゆくのです。人と比べる必要はありません。神さまは一人ひとりを見ておられます。

 最後に、礼拝は形以上に心が必要だと申しました。それは忙しい日本にいる私たちには、クリスチャンのほとんどいない日本にいる私たちには大きな恵みです。たとえ礼拝のために日曜日を休めなかったとしても、仕事をしなければならないときも、用事をこなさなければならないときも、教会だけが礼拝の場所ではありません。私たちはどこででも礼拝を捧げることが出来るのです。たとえ時間を沢山とれなかったとしても、礼拝には最低でも1時間は必要ということはありません。私たちは短時間でも礼拝を捧げることが出来のです。私たちは今年、御霊によって、真理によって、まことの礼拝者とならせていただきましょう。

 新しい一年に神さまの祝福をお祈りいたします。