(15.07.05)

ウィーン、プラハ、ドレスデン、ベルリン



 音楽を愛してやまない人なら一度は訪れたい音楽の都ウィーンに行きました。 そしてチェコのプラハ、ドイツのドレスデンを経てベルリンに旅をしました。 今年の楽しみがほぼ終わった感じです(^^)/

 写真1:美術史美術館

 現在のウィーンはオーストリアの首都で人口180万人ぐらいです。 歴史的にウィーンは、中世から第一次世界大戦で滅びるまで 650年間も中欧に君臨し続けたハプスブルグ帝国の首都です。

 1913年、第一世界大戦直前のハプスブルグ帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)は今の国で、 オーストリア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、クロアチア、ボスニア、スロベニア、イタリアの一部、ポーランドの一部、 ウクライナの一部、ルーマニアの一部を支配していた多民族国家でした。帝国内にはユダヤ人も多数暮らしていました。

 さらに昔は、オランダ、ベルギー、無敵艦隊のスペインやその植民地メキシコ、フィリピンも帝国の一部でした。 またハプスブルグ家は代々、ローマ法王庁の世俗的傀儡である神聖ローマ帝国皇帝でしたので、 今のドイツも形式的に支配していました。

 これだけ大きな帝国の首都機能を担っていたウィーンは、長い歴史の重みがありかつ豪華絢爛な都市です。 また、代々の皇帝が音楽をはじめとする芸術を推奨したので、 帝国の内外から腕に覚えのえる優れた芸術家がウィーンに住み活動しました。 ウィーンは優美で芸術にあふれた屈指の都市になりました。



 写真は美術史美術館です。 ハプスブルグの威容を伝えるバロック調の壮麗な建築物で、1872年、 時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の命により建設が始まりました。





 写真2:美術史美術館内部

 その内部は、ありふれた言葉ですが、豪華絢爛としか言いようがありません。展示されている作品は、 ラファエロ「草原の聖母」(1506)、 ベラスケス 「青いドレスのマルガリータ王女」(1659)、 ブリューゲル「子供の遊戯」(1560)、 ミケランジェロ「ゴリアテの首をもつダビデ」(1606)等、中世からルネッサンスの著名な作品等です。

 一時間で見るには、あまりにも深く重い美術館です。





 写真3:シューベルトの生家の中庭

 ウィーンに生まれウィーンで育ち、ウィーンで活動した作曲家は実は多くはありません。 作曲家のほとんどは帝国内外の田舎生まれの田舎育ちで、その才能を見出されてウィーンにやってきたようです。 しかし、シューベルトはその数少ない生粋のウィーン子です。

 シューベルトは才能にあふれているのに人に優しく、数多くの仲間に慕われていました。 しかし、箔給の教師に甘んじていたシューベルトは、 ウィーンの音楽界に見出されないままわずか31才で亡くなりました。 シューベルトの音楽の真価は、その死後にウィーンのみならず世界中に伝わり今も愛されています。

 写真はシューベルトの生家の中庭です。 この乙女の像はよくレコードやCDのジャケットに使われています。 控えめにひっそりと多くを語らずに生きたシューベルトに似つかわしいと思います。





 写真4:ワルツ王ヨハン・シュトラウス像

 もう一人の生粋のウィーン子、ヨハン・シュトラウスです。 シュトラウスはシューベルトとは正反対に売れっ子でヒット曲を連発し、芸術的、社会的、金銭的な成功をおさめました。 写真は逗留したホテルのすぐ隣にあったシュタットパークのシュトラウス像です。 金ぴかで堂々としたワルツ王ヨハン・シュトラウスらしい像です。

 シュトラウスは市民階級に絶大な人気があった一方、 時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世をはじめハプスブルグ家の人たちはあまり評価していなかったようです。 あざといまでにヒットを狙ったその作曲姿勢を好ましく思っていなかったようです。

 それとは関係なく、私はシュトラウスのワルツ、「青き美しきドナウ」、「ウィーンの森の物語」等は大好きです。 ちょっと疲れているときなど気軽に聞くと心がうきうきします。





 写真5:ウィーン国立歌劇場内部

 この巨大な建物は1869年に宮廷歌劇場として完成し、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の上演でこけら落しを行いました。 天井が高いため、音の一部が上から降ってくる感じでした。 代々の総監督、または音楽監督は、グスタフ・マーラー、ブルーノ・ワルター、リヒャルト・シュトラウス、クレメンス・クラウス、 カール・ベーム、ヘルベルト・フォン・カラヤン、小澤征爾等キラ星の如し。

 当日のオペラはイタリアの作曲家ベルディの「リゴレット」でした。 肝心のリゴレット(テノール)は声は通っていましたが、歌の表情がやや平板でした。





 写真6:ウィーン・ムジクフェラインザール内部

 ウィーン・ムジクフェラインザールは1870年に建設されました。 通称「黄金のホール」と呼ばれていてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地ですが、他に資料室や出版社、 ピアノのベーゼンドルファーなどが同居しています。 資料室も見たかったのすが、それはこの次です。

 このホールでウィーンフィル(創立1842年)と演奏した指揮者は、 ブラームス、ブルックナー、ワグナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、エーリッヒ・クラーバー、 フルトベングラー、トスカニーニ、ワルター、クナーパーツブッシュ、ベーム、カラヤン、バーンスタイン、 カルロス・クライバー、アバド、マゼール、小澤征爾…
まさにこの150年間の世界のオールスターです。



 このホールは舞台と客席が近いので一体感があり演奏するウィーンフィルのメンバーの表情がすぐ近くで見られます。 大きな編成の曲では「箱が鳴る」ように音楽が聞こえます。

 当日はマーラーの交響曲3番「夏の朝の目覚め」でした。 1時間半を超える大曲ですが、まったく集中力を切らさない心躍る演奏でした。 第一楽章の弦の荒々しい合奏、 スケルツォのトリオでのホルンの懐かしい響き、 アルトの幽玄な歌、 パイプオルガンの下に並んだ児童合唱団の歌、 終楽章の永遠の眠りに潜む美しさ。

 とりわけ最終楽章、チェロの音の壁を通して聞こえてくるホルンの響き、 これはもう二度と聞くことができないかもしれない響きかも、いや、もう一度ここに来て、 もう一度聞きたい。そんな思いが交錯して私は涙でウィーンフィルが霞んでしまいました。





 写真7:ベートーベン像の横を散歩していた柴犬

 日曜日の朝、早く起きてホテルの周りを散策していました。 すると、ベートーベン像の横に我が家のワンコとそっくりな犬の姿が。まさか\(◎o◎)/、ウィーンで柴犬?!

"Oh ,A Japanese shiba dog? very cute !"
と、散歩させている女性に下手な英語で話かけたところ、気軽に応じてくれて、 その後柴犬話でちょっとだけ盛り上がりました。 今回の旅全般で少し驚いたのは、ドイツ語圏、チェコ語圏でも英語が問題なく通じた事です。

 なお、このワンコは日本語も英語も分からないようです。





 写真8:ハプスブルグ家の王宮

 正確にはこれは新王宮、いわゆるホーフブルグ宮殿です。 最初に作られたのは13世紀頃。その後にハプスブルク家の王宮となり、 神聖ローマ帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇帝の宮殿として使用されてきました。 オイゲン公騎馬像が前にあります。

 なお、この王宮の隣にはエリザーベト像と薔薇園のあるフォルクスパーク、そしてその隣にブルク劇場があります。 王宮の向かい側には美術史美術館、自然史博物館、国会議事堂、市庁舎、レオポルト美術館等があり、 これらは3日の滞在ではとても見きれません。ハプスブルグ帝国の中枢は、圧倒されるように美しく言葉では言い尽くせません。





 写真9:シェーンブルン宮殿右側の庭園

 この宮殿はハプスブルグ家の夏の離宮です。離宮といっても文字通り遠く離れているわけでもなく、 市の中心部にあるウィーン国立歌劇場近くにある地下鉄の駅からわずか4つ目の駅近くにあるウィーン市内の宮殿です。

 しかし、その広大なことに驚きました。1441もの部屋がある宮殿もすごい大きさなのですが、 宮殿の裏に広がっている庭園だけでなんと1キロメートル四方以上です。 庭園の向こう小高い丘にそびえるグロリエッテは遙かかなたにあり、私は歩いて行くのを諦めました。

 シェーンブルン宮殿には数々のエピソードがあります。 ナポレオンがウィーンを占領した際にはここを拠点としました。 第二次世界大戦後にも連合国の拠点はこの宮殿でした。

 しかし、それよりもまだ幼かったモーツァルトが皇帝一族の前でピアノの演奏をしたことが有名です。 そして、幼いモーツァルトが躓いて転んだ時、女帝マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットが、 モーツァルトの手を引いて助け起こしたと伝えられています。

 その時、6才のモーツァルトは7才のマリー・アントワネットに、
「君って親切な人だね。僕が大きくなったら君をお嫁さんにしてあげるね!」
と言ったそうです。ハプスブルグ家の人たち、女帝マリア・テレジアをはじめ、次の皇帝ヨーゼフ2世少年、 その弟で次の次の皇帝レオポルト2世少年も、幼いモーツゥアルトの言葉に笑い転げたでしょう。



 写真はクリーム色(マリア・テレジア・イエロー)の宮殿右側の庭園です。 手前の赤と白い花はゼラニウム、芝生に模様を描く白い花はベゴニア、 丸い花壇の濃いピンクもゼラニウムです。 右側奥の赤は薔薇です。 私はここで、 リヒャルト・シュトラウスの「赤い薔薇」というチャーミングな曲を持参したウォークマンで聞きました。



 写真10:シュテファン大聖堂

 ルドルフ4世の命によって建造されたゴシック様式のこの美しい聖堂は、 14世紀に107メートルの高さを持つ南塔が完成しました。 シュテファン大聖堂はウィーンの中心にあり、 ハプスブルク家の歴代君主の墓所であるほか、モーツァルトとコンスタンツェの結婚式が行われた聖堂です。

 中世になって影響力を増大させたカトリックの法王は、ローマから遠くて目が届きにくいアルプス山脈以北の支配に心を砕きました。 中世でローマの傀儡として世俗的な支配の総本山がウィーンでした。 後に宗教改革によて生まれたプロテスタントを弾圧する役目もウィーンが行いました。 したがってウィーンにはカトリック関係の壮麗な建築物が多数ありますが、中でもこのシュテファン大聖堂は、 その白眉です。





 写真11:モルダウ(ヴァルタヴァ川)にかかるカレル橋とプラハ城

 現在はチェコの首都、プラハに行きました。 歴史的にプラハは、ウィーン、現在のハンガリーの首都ブダペストと並んでハプスブルグ3姉妹都市ともいえる存在でした。 プラハは第二次世界大戦でほとんど空襲をうけなかったので、 中世からバロックまでの街並みをそのまま残している魅力的な都市です。 しかし、そのためプラハ市内は狭い路地が八方走っていて、2日だけの旅行者には謎が多く陰影に富んだ迷宮都市でした。

 プラハの人々は(ウィーンと違って)働き者です。 夜は8時〜9時過ぎまで小さな商店までもが開いていますが、翌日7時にはもう開店する準備を始めています。 また、歩行者用の青信号の時間が非常に短く急いで横断しないとすぐにクルマが走りはじめます。 プラハの人々は気が短いのかも。

 プラハのホテルで不思議なことが起こりました。 朝起きたらソックスが片方見つかりません。確か寝る直前にベッドの横に脱いだのに。 その代わり、ホテルの簡易スリッパが1足と半分、つまり3つに増えていました。 夜中のうちにソックスがスリッパに化けた?あり得ない。

 片方のソックスはとうとう出てきませんでした。
まだ行くな、とプラハの街が言ってるのかも。



 写真の橋は、14世紀の半ばに時の王カレル4世の命で建設されたカレル橋です。 以来600年、幾多の洪水にたえて現在に至っています。 カレル橋には30もの歴史的な聖人やチェコの英雄の像が建ち並んでいます。 橋の対岸の丘の上にはフラチャニ丘に建つプラハ城がそびえ、まさに絶景です。





 写真12:アルテ・マイスター

 ドイツに入り、古都ドレスデンに立ち寄りアルテ・マイスター絵画館を見ました。 ジョルジョーネ 「眠れるヴィーナス」(1508)、 ラファエロ 「システィーナの聖母」( 1512)、 レンブラント 「ガニュメデスの誘拐」(1635)等、中世からルネッサンス期の歴史的な絵画を堪能しました。 また、数年前に東京で見たフェルメール の「窓辺で手紙を読む女」( 1659)にも再対面しました。 「窓辺で手紙を読む女」にドレスデンで再び会えるとは…感激でした。

 写真はアルテ・マイスターがあるツヴィンガー宮殿の門です。 ザクセン王国の宮殿であるツヴィンガー宮殿ですが、 タマねぎ形状の王冠のような妙なものが門に乗っています。





 写真13:ベルリンフィルハーモニー内部

 ベルリンではベルリンフィルハーモニーを聞きました。 ベルリンフィルは説明不要の世界最強のオケですが、 このベルリンフィルハーモニーも音のよいホールとして知られています。

 当日の2曲目は、その日が世界初演というチン(韓国人女性でした)の「サイレンの静けさ」でした。 曲全体はすぐにはわかりませんでした。 しかし、曲の半ばで終始p(ピアノ:「弱く」という意味)で奏でられる大太鼓(ブラスバンドでいうバスドラム) の音が客席まではっきりと聞えとても驚きました。

 しかも、あんな小さな音なのに私の顏のや腕、脚へ空気の振動が感じられ、 耳のみならず体全体に芯のある低音が響いたのでした。これは今まで体験したことのないライブ感でした。



 写真は、コンサート前半の休憩前の様子。 「サイレンの静けさ」のソプラノ歌手がカーテンコールに応じている場面です。 作曲者のチンが出てきて頭を下げています。 コンマスの前にいる指揮者はもちろんサイモン・ラトルです。





 写真14:ベルリンフィルハーモニー外部

 最後はベルリンフィルハーモニー前です。 ウィーンとは違い、ベルリンではスーツを着ている人は少数派で、ビジネス・カジュアル程度の軽装でも よいことが分かりました。当日のベルリンは最高気温16℃という涼しさで、スーツでちょうど良かったのは幸いでした。