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私の履歴書 |
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日経新聞に毎日連載されている「私の履歴書」に倣って、私的なトピックや社会的事件、
またその時考えたことをいくつか書いてみます。
日経新聞の「私の履歴書」はその生誕から現在までを概ね時系列に書いていますが、
ここでは印象深いことをスポット的に取り上げることにします。 ------------------------------------------------------------------------------------------ (20.12.13) 第12回 酒の話 夏に自宅で採れた梅をホワートリカーに浸して梅酒を作ります。 年末あたりが飲み頃になります。 酒は辛口が好きなので砂糖などは一切入れません。 砂糖は梅の旨みを引き出すといわれていますが、 私はほんのり梅の香りがする程度が好みなので梅も少なめです。 写真下↓:今日の梅酒 背景のゼラニウムは冬まで花が咲きます 私は毎日少しだけ酒を飲みます。 夜10時ごろから一人で飲み始めて20〜30分ぐらいで終わりです。 アルコール濃度40%の梅酒なら1/4に薄めてグラスで2杯程度、それ以上は飲みません。 いわゆる「つまみ」はなし、その代わりによく馴染んでいる音楽を聴くことが多いです。 アルコールが体に吸収されて脳髄が気持ちよくなる感じが好きです。 中毒かもしれません。 特にテニスなどの適度な運動をした日はあっという間に酔って寝てしまいます。 電灯を消してから1分で眠りに入り次に気が付いたら朝6時だったということも多いです。
昭和の始め頃、母親の家系は酒飲みが多くて親戚や仲間たちと頻繁に家で飲み会をしていたようです。 酒癖も悪くて夜中に大声で喧嘩したり庭のそこら中に放尿したりゲロを吐いたり、 娘時代の母親はそれが嫌で嫌でたまらなかったと聞いています。 お見合いをするにあたって「酒を飲まない男」が絶対譲れない条件だったと言います。 その結果、ビールをコップで半分程度しか飲めない父親と結婚したのでした。 しかし、二人の息子が両方とも酒が大好きと分かったときはさぞ心配したと推測されます。 私の弟は小学生の頃からビールを「うまい!」と言っては飲んでいました。 子供のうちから酒を飲むのは頭の発達によくないといわれますが、 弟は国立の医学部に現役で受かり今は大学教授です。 今もビールが好きな酒飲みです。 私も高校2年生ぐらいから少し酒を飲むようになりました。 大学生の頃はかなり大量に飲酒することもありましたが、酒で致命的な失敗をするほどではありませんでした。 会社勤めをしていると「ほぼ仕事としての」職場の人との飲み会があります。 会社を辞めた後も町内会の役員とか、他の団体などとの飲み会が結構あります。 私はこれらがどうも苦手です。 その理由は第一に話が全然合わないからです。 その他の理由としては食べ物の味が濃すぎて口に合わない、 カラオケを聞くのが苦痛、 夜の女性とも話が合わない、 タバコの煙が嫌、 酒を飲むとすぐに眠くなり家に帰るのが面倒、など。 私はある時から飲み会は一次会までしか行かないと決め今もそれを通しています。 ある時、「一人で酒を飲みに行って楽しめるのが一人前の男だ」と言うのを聞いてそれを実行したこともあります。 しかし、スナックに行けば夜の女の人と話が合いません。 「場末の店ではなく銀座のいい店に行けばそうでもないよ」という意見もあります。 そのうち試そうと思います。 一人でバーで飲んだこともあります。 いろんなお酒がおいしく飲めて雰囲気も楽しめてよいのですがそれだけです。 映画のようなドラマチックな出会いは起こりません。 結局は自分の部屋で飲む方向に落ち着きました。 ただどんな場合でも飲み会が嫌いなわけではありません。 学生時代は頻繁に自主的な飲み会に参加しました。 若い頃はクラシック音楽を聴くサークルにいましたがそこでの飲み会は楽しかったです。 音楽の話題以外にも諸先輩方に貴重な話を聞くことができました。 40歳代の頃、女性が多数の職場にいたことがありますがその頃の飲み会は結構楽しかったです。 女性幹事が企画した飲み会は居酒屋ではなくレストランで、二次会はカラオケのないおしゃれなバーでした。 普段はみんなからやや避けられているような高学歴女性達の話は面白かったです。 最近ではヨーロッパに旅行での一期一会の食事会も楽しかったです。 お酒が入れば話は弾みます。 私は初対面の人とはかえって気楽に話せるのですぐに仲良くなれます。 今はじっくり話すことができる酒飲み友達が欲しいです。 私は馬鹿な話とまじめな話の落差が大き過ぎるといわれているのでそれに対応できる寛大な人がよいです。 ------------------------------------------------------------------------------------------ (20.10.24) 第11回 落ちこぼれを体験 中学3年の秋に受験する高校が決まりました。 その高校は一クラスから5〜6人は受かる非難関高校でした。 それよりさらにレヴェルが高い高校を狙うという選択肢もありましたが、 私はリスクを背負って苦しい受験勉強をする決心がつきませんでした。 勉強嫌いだったわけではありません。 数学や理科、英語などはむしろ大好きでした。 興味のある分野は中学校の授業とはまったく別に自宅で深堀り勉強をしていました。 しかし私はテストのためだけの暗記や受験勉強は苦痛に感じました。 受験先がそこに決まって私は受かったも同然と思いました。 いままで覚えたことを忘れなければラクラク受かると思いました。 そこで問題集を各教科1冊づつ買ってきて一日一教科一時間だけ受験勉強に充てることにしました。 他の時間は受験とは関係ないことで過ごすことに決めました。 英語ではCarpentersなどのポップスの翻訳を試みました。 英語を日本語に置き換えれればよいのではなく詩の美しさが分かることが重要なのだと思いました。 国語は小説を読みました。 ただし太宰や芥川などは歯が立ったないのでその多くは筒井康隆などのSF小説です。 正月にH.G.Wellsを読んで1〜2週間鬱病のようになったことは以前書きました。 SF小説を読んでから戸外で星を見て空想を広げたりしました。 私は小学生のころから30分や1時間ぐらい星を見ていても飽きない子供でした。 特にアークトゥルスやベテルギウス、アンタレス、アルデバランなどの赤色巨星が好きでした。 それに朝方近くまで深夜放送を聞いて大人の世界を垣間見るようになったのもこの頃からです。 ニッポン放送の「オールナイトニッポン」、TBSの「パックインミュージック」、文化放送の「セイヤング」などです。 ポップスやフォークソング、それに都会のきらきら光る若者文化へ憧れるようになりました。 それは昼間の生活とはまったく異なる世界でした。 春になって試験が終わりました。 合格発表の日は友達4人で会場に歩いて行きました。 バスで15分、自転車で30分で行けるのに、わざわざ1時間以上かけとりとめのない話をしながら春の日光を受けてのんびり歩いていった理由は思い出せません。 4月から高校生活が始まりました。 しかし、私はすぐに体と頭に不調を感じるようになりました。 一日中頭がぼんやりして体はだるくてやたら鼻水が出ます。 私は風邪だと思って(数年後に「花粉症」だと分かりました)薬を服用し、それによってますます日中は眠くなりました。 こんな状態では授業に集中できず内容が理解できなくなっていきました。 受験勉強をほとんどやらなかったことも重なりクラスメートから次第に遅れていきました。 こんなことは初めての経験です。 花粉症は秋にも発症してさらに困難さは加わりました。 高校1年生の成績は同学年400人中、上から300番前後に低迷しました。 得意なはずの数学までわからなくなって私は焦りました。 2年生になってもその状態はほぼ変わりません。 私には先生にもクラスメートにも「期待されない生徒」になったことがその言動からひしひしと伝わります。 学校に行くのがかなりつらかったです。 その頃よく聞いたのは吉田拓郎とか井上陽水などのフォークソングです。 すっかり弱くなってしまった心に彼らの歌が沁みこみました。 さらに未来を悲観し、世を儚み厭世的な気分(マーラーの交響曲「大地の歌」的な気分だと後で知りました)が支配していました。 悲惨な現在を肯定できず楽しかった過去に遊ぶことも多くなってきました。 将来の夢も萎んでいきました。 私は科学の研究者になりたいとずっと思っていました。 何かを発明して世に認められ金持ちになるというよりは、 宇宙の時間とか空間の構造や秩序、あるいは物質の究極的性質を知りたいと思っていました。 そのためには何よりも数学ができなくてはなりませんが現状はそこから乖離するばかりです。 完全な「落ちこぼれ」です。 転機は高校2年生の冬休みでした。 せめて数学だけでも遅れを取り戻そうと一念発起しました。 これまでに習った範囲を気を入れて復習したのです。 そしたら今まで難しいと思っていたことも何のことはなく割と容易に理解できたのです。 数学が思ったよりも早く終わったので英語も復習できました。 実り多い冬でした。 冬休み明けの校内テストでは14番に急浮上したことを今でもよく覚えています。 300番が14番になったのですからとてもうれしかったです。 クラスメートや先生も私の躍進に驚いていました。 今はプライバシーの問題でやらないでしょうが、昔は点数順に掲示板に氏名を張り出したので生徒はお互いどうしの成績を知ることができたのです。 3年生の春には経験的に花粉症対策をある程度できるようになりました。 その頃には私の成績は10番以内に定着、 この位置では「旧帝大」や早慶などを狙えます。 こうなると先生は「期待する生徒」として熱心に教えてくれ励ましてくれるようになりました。 1年生の時は勉強が不得意でも明るくて人気者だった生徒も、 2年3年と進むうちにあまり目立たなくなりました。 代わって地味でも勉強を教えてくれる生徒が次第に人気者になってきました。 私も教える立場となりました。 3年生になってほとんどの教科で成績がどんどん上がったのですが例外があります。 それは古典です。 まったく理解できませんでしたし最後まで嫌悪感が抜けませんでした。 古典のテストで100点満点中なんと8点だったことがあります。 選択問題でイ、ロ、ハ…、とデタラメに書いたらたまたま4つだけ「当たった」のです。 古典は受験とは関係ないので授業中は別の教科の「内職」をしていました。 たまに指されても質問の意味すら分からないので立ち居往生しました。 胃からすっぱいものが上がってくるような気持ち、 あれから何十年も過ぎた今でもたまに夢で甘受します。 逆に得意だったのが物理と化学でした。 成績が下位に低迷していた頃でさえもこの2教科だけは得意でした。 両教科あわせて3度100点満点がありました。 物理100点、古典8点、その差92点ということで先生に「新記録だ」と言われ呆れられました。 8月に運動部から引退し受験勉強一色になりました。 この時期で思い出深いのは高校主催の受験勉強合宿です。 学校が選抜した成績上位男女15人程(選ばれなかった人には内緒に、と言われました)が夏休みの一週間泊まり込みで勉強するのです。 合宿では特別な授業はなく、 一日当たり14時間(数学12時間、英語2時間)生徒それぞれが自習するのです。 ただ黙々と勉強するのではなく互いに教え合ったり、共に考えたりすることも多かったです。 みんなで考えてもわからない時には待機している先生が登場します。 この合宿はすごく有意義でした。 私よりも成績のよい生徒がどんな勉強法をしているのか、 どんな問題集を使っているのか、 どんな思考過程をもっているのか、 一週間同じ釜のメシを食って勉強したことで、 それらを目の当たりに出来たからです。 やがて秋は深まり11月の文化祭も終わって最後の数か月、 成績は最高3番まで上がって私は初めて高校生活が少し楽しいと感じるようになりました。 大学受験も突破しましたが、 依然として底流では厭世的な気分は継続していました。 卒業式では慣例として、 1〜3年通算で成績トップの生徒が学年を代表して校長先生から卒業証書を授与されることになっていました。 ところが当日になってその生徒がドタキャンしたのです。 担当の先生は代わりに私を指名しました。 「特進クラスの名簿1番だから」がその理由です。 私は「落ちこぼれ」期間が長かったので1〜3年通算ではトップどころかほぼ中程度でした。 ただ最後の数か月、しかも古典を除いた成績はトップかトップに近かったので周囲も異論はありませんでした。 卒業式に来ていた母親は、事情を知らない周囲の父兄に「おめでとうございます、息子さんすごいですね」と言われたそうです。 それでも私にとって不完全燃焼の高校時代でした。 ------------------------------------------------------------------------------------------ (20.07.18) 第10回 「分かりませんでした」 休日の午前中、NHKラジオ第一放送で「子供科学相談室」という番組があることをご存知でしょうか? 全国の子供(4才〜中学生まで)が生き物、宇宙、海、空、交通などについての質問をし、 その道の識者の?先生が丁寧に答えるという番組です。 「カエルや蛇はなぜ冬眠するのに人間はしないの?」 「ブラックホールに吸い込まれたらどうなるの?」 「雲は食べられるの?」 などのような素朴な疑問もあれば、 「線路の下に敷いている砕いた石は昔から変わっていないそうですが、何故ですか」 という質問もあります。 私はこの番組をクルマを運転しながら聞くことが多いです。 「ああ、なるほど」と思うこともあれば「この説明では理解できないよな…」と感じることもあります。 あるいは「頭のいい子供だな、将来が楽しみだ」と思うこともあれば逆に「この子は科学を好きにならないだろうな」と感じることもあります。 ところで気になることが一つだけあります。 それは、子供と先生のやり取りが終わると女性アナウンサーが決まってこう聞くことです。 「○○さん、分かりましたかぁ?」と。 すると子供は決まってこう答えます。 「はい、分かりました」と。 それまでのやり取りからほとんど理解できていないと思われる子供も「分かりました」と答えるのです。 なぜでしょうか? その答えの一つ目は、全国の視聴者が傾聴してるので「分かりませんでした」とは恥ずかしくて言えない。 二つ目は、一生懸命説明してくださった先生に申訳ないので「分かりませんでした」とは言えない。 三つめは、この番組では「分かりました」というのが慣例になっているので無条件でそれに従っている。 私は分からない時に「分かった」とは言えない子供でした。 例えば小学生の高学年の頃です。 三角形のある一辺の長さは他二辺の長さの和より必ず小さくなることに授業中に納得できなかったので、 「分かりませんでした」と先生に言いました。 先生が困惑した顔になったのを覚えています。 それで家に帰ってから定規とコンパスで種々の三角形を書いて夫々の辺の長さを計ってみました。 すると三角形のある一辺の長さが他二辺の長さの和より長い三角形を絶対描けないことが分かりました。 その作業を通じて私は三角形の本質に迫ったように思いました。 大人になってからも、この「分かりませんでした」でトラブルを起こしています。 例えばある新人研修を受けたあとのレポートに「分かりませんでした」と書いたら、 後で部長に呼び出されて「どういう意味だ!」と怒られました。 私はなぜ怒られるのか分からなかったので困惑してしまいました。 そう言えば、 研修中に隣に座っていた同期が 「あの説明じゃ全然わからないよなぁ…、いい加減だなぁ」と口にしていたのに、 「丁寧な説明ありがとうございます。今日聞いた事項を今後の仕事に役立てたいと思います」 とレポートに書いていたのでした。 私は彼に対して「嫌だな」「大人だな」という二つの感情がわきました。 その後も「分かりませんでした」で種々のトラブルを起こしそうになりましたが、 後が面倒くさいので公私ともになるべくその言葉は使わないようにしています。 しかし、分からないものは「分かりませんでした」内心では言っています。 この世にはいっぱいわからないことがあります。 ※参照 20/07/01”TODAY” サンデン(6444)が事業再生ADRを申請しました。 倒産したわけではないのですが、 金融機関などに借金棒引きをお願いしなければならない情けない事態になりました。 このサンデンに関してちょっとした昔話を。 二十年も前でしょうか、私は設計プロセスに関するセミナーを受講しました。 内容を一言でいえば、設計前の検討に大きな時間を割くべきである、 種々のリスクやボトルネックをあらかじめ深く把握しておくべきである、というものでした。 講師はトヨタ自動車の現役のベテラン社員で、 最後に実施例三社の発表がありました。 その中の一社が冒頭にあげたサンデンでした。 他はソフトウエアのインテック、もう一つは忘れてしまいましたが中堅の上場企業でした。 問題はその三社、いずれも当時の2〜3年間赤字続きだったことです。 私は、素晴らしい発表をしたのに会社が赤字ではしょうがないと思いました。 そこで「この設計プロセスを採用すれば会社の業績が向上するというエビデンスをお持ちならお聞かせください」 と質問しました。 するとその講師は烈火のごとく私に怒りました。 「これほどしつこく言ったのにまだ分からないのか!」と。 私は言い返したかったのですが、私が勤務する会社にとってもトヨタ自動車はお客様なので黙っていました。 何十人もの前で罵倒されてちょっと気分は悪かったのですが、 こういうケースで全然傷つかないところが私の良いところだと思います。 そして、心の中でその講師に言いました。 「四季報ぐらい見てから選べよな」 ------------------------------------------------------------------------------------------ |