私の履歴書



 日経新聞に毎日連載されている「私の履歴書」に倣って、私的なトピックや社会的事件、 またその時考えたことをいくつか書いてみます。 日経新聞の「私の履歴書」はその生誕から現在までを概ね時系列に書いていますが、 ここでは印象深いことをスポット的に取り上げることにします。



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(20.05.24)


第9回 パソコン、インターネット



 私は高校1年生の頃からプログラミングをしています。 「計算機クラブ」なるものに入ったからです。 まだ1970年代前半です。 1980年ごろにはパソコン(オフコン?)にも触れています。 大学の研究室に置いてあった古いタイプで型番は忘れてしまいました。

 言語はFORTRAN、BASICなどです。 当時は一般向けの数学雑誌にプログラミングソースが載っていました。 それを見ながらコンピュータを動かしていましたが、 それは単なるホビー程度で実用に耐えるレベルではありませんでした。

 一方巷では「インベーダゲーム」が流行していましたが私はあまりやりませんでした。 1回100円がとんでもなく高価に思えたからです。 任天堂のファミコンもずいぶん流行ったようですが私は興味がありませんでした。 ゲームには一度も興味をもつことなしに今日まで来ています。



 エンジニアとして就職した企業では一部の仕事でパソコンを使っていました。 そこで私はMS-DOS(Microsoft Disk Operation System)を勉強して仕事関係のプログラミングをしていましたが、 それはあくまでもハードウエアを設計するための補助手段でした。

 しかし事務系、営業系の職場ではパソコンどころかやっとワープロが使われだしたばかりでした。 私が一時的に営業技術に配属された時、 ワープロが課に1台だけあって、みんなでそれを1時間交代で使っていました。 「ワープロ予約表」なるものが課長の机わきにぶら下がっていました。

 課の「おじさん」達は自分の順番がきたら分厚いマニュアルを一頁づつめくりつつ、 のろのろとワープロの練習をしていました。 あらかじめ鉛筆で書いておいた原稿を見ながら一字一字ワープロで打って清書しているのです。 何度も首をかしげながら。

 ある日、一番若い私がマニュアルも見ず原稿もなしでいきなり文書を書き始めた時、 驚きの声があがりました。
「キミはこの機種を使ったことがあるのか?」
「ないですけど、使ったらすぐに分かります」
「原稿もないのに文章が書けるのか?」
「文章を考えながらワープロするんです」
「おー、新人類だ!」という声がどこからか聞こえました。



 バブル経済の頃に私は別のメーカーに転職しましたが、そこにはまだ1台のパソコンもありませんでした。 私はIBM互換のパソコンを買って欲しいと上司に言いました。 上司はいぶかしげに「仕事とパソコンはどう関係があるんだ?」と言いました。 その上司はパソコンとはオタクだけが使うものという認識でした。

 数年後、職場のパソコンは数人に1台までに普及しました。 「パソコン通信」というアナログ電話回線を通じたデータのやりとりが始まっていました。 さらにアメリカではインターネットという画期的な通信方法が普及してきたことを知るようになりました。 そこで、仕事とは別に有志で会社のパソコンをインターネットに接続しようということになりました。 Windows3.1の時代でした。

 試行錯誤の上インターネットがつながり真っ先に入れたURL、それはアメリカの無修正ポルノ画像のWebsiteでした。 男はみんなそれを見たかったのです。 それが画面に次々と出た時みんな「おお!!」と感動の声を出し、 周りに人がいないか慌てて見回しました。



 自宅でパソコンを使うようになったのはWindows95の頃です。 最初の機種は富士通のFMVで、クロックが200MHz、HDDは1G以下でした。 ブラウザはNetscape、日本語ワープロは「一太郎」でした。 検索ソフトはなく、「イエローページ」というURLを記した電話帳みたいな本がありました。 通信はまだアナログ電話回線で直にISDNに、やがて光回線に変わります。

 パソコンが来た初日、夜から朝4時までどう頑張ってもインターネットが接続できませんでした。 また次の日、朝4時にやっとできた時の感激は忘れられません。 2日間ほぼ徹夜、あの頃は体力があったなと思います。

 その頃から私は普及し始めた携帯電話関連の仕事をするようになりました。 その頃の世界最大手はアメリカのモトローラ社で、次にはヨーロッパのノキア社がトップになります。 仕事のためもあり、私は携帯電話を毎年最新のものに買い替えていました。 電話しかできない1G、テキストベースでインターネットもメールもできる2G、画像を扱える3Gと技術は進歩していきます。



 時は流れ2000年、私はあるアイディアを思いつきました。 それは株の売買状況を日々アップする自分のWebsiteを持つことです。 そのWebsiteが人気になってアクセス数が増えれば、私がHOLDしてる株を買う人が出てきて株価が上がるのでは、 と考えました。

 そこでHTML(HyperText Markup Language)を勉強して「こざらし株式投資」というWebsiteを立ち上げました。 その頃、株に関する素人投資家のWebsiteは一つも存在しませんでした。 また日々の売買を書いているものはプロの投資家を含めてもまったくありませんでした。 私はこの分野では先駆者、Pioneerだと思っています。

 その頃人気があったのは誰でも閲覧できて書き込みもできる「掲示板」でした。 その中でも一番人気の「お気楽株式投資掲示板」は株を売買する上で最も参考になりました。 「お気楽株式投資掲示板」では諸先輩方が株売買のエッセンスを惜しげもなく披露していたのです。 さらに私は「お気楽株式投資掲示板」を「こざらし株式投資」の宣伝に使わせてもらいました。

 その効果もあり、「こざらし株式投資」は当時としては破格の一日あたり平均1.500アクセス、 多い日は5.000アクセスにも達する人気Websiteとなりました。 その効果は絶大で、私が買った銘柄が翌日ストップ高になったのは10回や20回ではありません。 もともとがチキンであるため投資資産は数倍程度までしか増えませんでしたが、 それでも週刊誌や月刊誌から取材が来るようになりました。



 その後「こざらし株式投資」のような個人投資家のWebsiteは雨後の竹の子のように増えてきました。 私は銘柄のポジショントークを頻繁にしていましたが、嘘は書かないように注意していました。 しかし、そうではない詐欺まがいのWebsiteも増えてきました。 著名だった「辛○トーク」などがその例です。 当局の目も鋭く光るようになってきました。

 個人投資家の居場所はWebsiteからやがてBlogに、そしてSNSやYoutubeにトレンドが移っていきました。 スマートフォンの普及とともにその流れが加速していきました。 私はSNSを利用して何か新しいやり方がないか模索しましたがどうも思いつきませんでした。 私は時代に遅れてきました。

 そう言えば、 パソコンは富士通に次いでIBM、NEC、Sotec、DELL、東芝と使い続けていましたが、 最近は購入時に自力で初期設定ができなくなり、 5000円も支払って販売店にお願いしています。 7年間近く使い続けているスマホも近頃のコンテンツではスペック不足が顕著になってきました。



 若い人から見たら、私は昔の「おじさん」以下に見えるかもしれません。 しかし、世の中に決定的に遅れるのはまだ早い。









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(20.01.13)


第8回 父親(1/2)



 2019年最後の月、父親が亡くなりました。 日本人男性の平均寿命を数年上回ったので長生きと言えるでしょう。 中年期あたりから病気がちだったのによく命を保ったと思います。



 私が子供の頃はとても怖い父親でした。 怒るとすごく怖かったし小学校の低学年の頃、何度か手ひどく殴られたことがありました。 そのうち2回は殴られた理由を今でも覚えています。

 小学校1年生頃、わら半紙(低品質なコピー用紙のようなもの)を近くの店から100枚ほど買ってきた帰り、 強い風が吹いて私の手から大部分が飛んでしまいました。 私は泣いて家に戻りました。 鼻血が出るほど殴られたのはその直後です。

 父親はおそらく、その程度のことで泣いて戻ってきた子供を情けないと思ったのではないかと思います。 この気持ちは親になってみてよく分かるようになりましたが、 それでも7才の子供には少々酷だったと今でも思います。



 もう1回はその1年後のことです。 近所の子供2人と私たち兄弟が「メンコ」で遊んでいた時のことでした。 3人で弟のメンコを集中的に狙って攻撃をしていたようです。

 近所の2人が帰った後、私はまた手ひどく叱られました。 「お前たち兄弟は、今も将来も互いに助け合って生きていけなければならないんだ! それをなんだ!」 と言うことでした。 この時もこの前の時も母親がそれ以上殴るのを止めてくれたことは幸いでした。



 一方では気前がよい父親でした。 顕微鏡とか図鑑とか百科事典、60色のクレヨンとか、子供たちが本当にほしがったものはよく買ってきてくれました。 また、当時は高価だった本格的なカメラを子供が使うことを許してくれました。

 カメラと言えば父親は私たち子供の写真を撮るのが好きでした。 私が赤ん坊のころから10才あたりまでの写真は、当時フィルムや現像代が高価だったにも関わらず何百枚もあります。

 しかし、それ以後は写真への興味がパタリと無くなったようです。 小学校高学年以後、なぜか父親はまったく子供達の写真を撮らなくなりました。 理由は聞かずに終わりました。

 話を元に戻して、小学校の高学年になってからは野球のグラブやバットを買ってくれました。 かなり危険な化学実験用具や、薬品を買うことも黙認してくれたのは前々回ここに書いた通りです。 これらのものは当時近所では誰も持っていなかったのでした。



 しかし、子供たちが欲しがっても決して買ってくれなかったものも幾つかあります。 その1つは例えばフォークギターです。 ギターに関しては母親の意向も働いたのだと思います。

 というのも母親の弟(私のおじさん)はギタリストでした。 おじはNHKの紅白に出たことがあるビッグバンドで演奏していたこともありしたが、 大部分はスナックでギター弾きのアルバイトで生計を立てたのでした。 (その後、カラオケが出てきたのでギターでは食っていけなくなりました) 母親は私たち兄弟が音楽に興味を持つことを特に警戒していました。

 ちなみに、母親の兄は美術教師から洋画家に転身しました。 彼は偉大な巨匠のように絵を描いて生きていこうとしましたが、 それだけでは食えずやはりカルチャースクール等でアルバイトをしていました。

 さらに私の年上のいとこはウィーンに留学した後、国内でピアニストとしてデビューしました。 しかしその後本格的な演奏活動はしていないようです。 このように母方の家系は芸術肌の人(母親は「どれも半端な芸術家」と言ってました)が多かったです。

 私は大学生の時に少しギターを練習したのですがモノになりませんでした。 同じ強さで一定の速度でアルペジオを弾くことにさえも苦心しました。 私は芸術への興味は強いのですが、(幸いにして?)才能は遺伝しなかったようです。 なお、父親も私の弟もその方面にはまったく興味がないようです。



 父親の実家はごく一般的な農家でした。 田んぼや畑を所有していましたが特筆することはありません。 父親の父親の兄(父親のおじ)は私が生まれる前に、まだ村だった頃の村長だったと聞いています。

 父親の仕事は地方公務員の事務職でした。 春夏秋はバイクで、冬はバスで役所に通っていました。 日本の高度成長が終盤(田中角栄内閣の頃)になるまでクルマをもっていない家庭が多かったのです。

 住民たちは遠い役所に気軽に行くことができないので、 日曜日など我が家の玄関が半ば役所の窓口みたいになっていました。 みんなの質問に楽に答える父親はすごいんだな、と子供心に思っていました。 私は小学生に上がるころにはジューミンヒョウ、ショーホン、トーホン、インカンショーメイ等という言葉を覚えてしまいました。

 父親は酒は飲めず、キャンブルもしないで働き、最終的に役所でナンバー・スリーまで昇進したので職業人生としては大成功だったと言えるでしょう。 定年後も80才近くまで天下り先で肩書を得て働いていました。 二人の子供を理学修士・医学博士にまでにしてくれて、この面では感謝以外に言葉はありません。



 しかし、父親を反面教師にしたところもあります。

(2/2)に続きます。 





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(19.11.23)


第7回 買わなかったもの



 あまり大したエピソードではないのですが、 高校時代にみんなが買っても私だけ買わなかったものがあることを思い出しました。 それは以下の3点です。

@学校指定の「トレーニングウエア」
A同「習字セット」
B卒業アルバム



 「このトレーニングウエア、市販品だったらせいぜい6〜7.000円ですよね。 校章が入っただけでなぜ19.000円もするんですか? 暴利ですよね。」

 私の子供が高校に上がる3月、学校指定の洋品屋さんに上記のようなことを言ったのを覚えています。 それでも結局は買うことになるのですが、 メーカーと洋品屋さんと学校が談合して、デフレにならないようにしているのに我慢ならなかったのです。 新入生とその父兄を食い物にしているといえます。



 さらに遡って40年以上も前になりますが、 私の高校入学の時も学校指定のトレーニングウエアはその時点の物価と比べて値段が異様に高かったのを覚えています。 いつの時代も談合の癒着関係は変わらないのです。

 私は結局はそれを買いませんでした。 デザインも我慢ならないぐらいダサいと思ったことも理由です。 後に高校に入学してから、そのトレーニングウエアを買わなかったのは私ともう一人 (190cmと背が大きすぎて合うものがなかった)だけと知りました。

 体育の時間はたいして困りませんでした。 非運動部の生徒や、柔道とか剣道とか弓道部の生徒は学校指定のトレーニングウエアで授業を受けていたのですが、 バスケ、サッカーとか陸上部の生徒はそれぞれ別のトレーニングウエアを着ている生徒も3〜4人いたからです。 たまに私一人だけ別ということもありましたが、特に何も言われませんでした。

 困ったのは高校総体の壮行式や入場行進の時です。 全員が学校指定のトレーニングウエアを着ることになっていたからです。 サボろうと思いましたが、先輩や応援団が怖かったので1年生の時は非運動部の生徒から借りてしのぎました。

 しかし、2年生からは完全にサボることにしました。 若気の至りで儀式的なことに反感を持っていたこともあります。 後で多少「ああだ、こうだ」と言う人もいましたがみんな無視しましたが、 後々まで何か言われたりいじめられたりすることはありませんでした。



 習字セット(硯、筆、墨など)は小学校4年生になる時に買ったものを中学でもずっと使っていました。 高校でも学校指定がありましたが私は買いませんでした。 理由はうまく説明できませんが、強いて言えば「習字」という教科にそれほどの意義を見いだせず、 小学校4年生のセットで十分と思ったからかも知れません。

 そのことについは高校の授業で何か言われたりいじめられたりすることはありませんでした。 習字の先生は穏やかな中年女性だったのですが、 通信簿にはいつも平均点以上をつけてくれました。

 今でも中国四大書家、欧陽詢(おうようじゅん)、王羲之(おうぎし)、顔真卿(がんしんけい)、チョ遂良(ちょすいりょう) など覚えています。(なお「チョ」はPCで変換できない漢字です) 習字というか「書」は今からでも趣味でやってみたいと思うことがあります。



 卒業アルバムも買いませんでした。 やっぱり買う意義を見出せなかったからです。 勉学、クラブ活動、人間関係、すべてが中途半端で煮え切らなかった高校の3年間だったので、 どちらかと言うと早く忘れたい、ここから去りたいという気分が支配していました。



 私は一人だけ違うことをするのにあまり抵抗がありません。 誰もが持っているものでも、それに意義を感じなければ、一人だけ持っていなくても大して気に留めません。 上ではたまたま高校時代の事を思い出したので3点あげましたが、 それ以後それ以外の例もいくつかあったように思います。

 そのせいで世間的に不利に扱われることもあったでしょうが、 それはそれで覚悟の上です。 私はそれを「強み」の1つだと思っています。

 



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