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私の履歴書 |
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日経新聞に毎日連載されている「私の履歴書」に倣って、私的なトピックや社会的事件、
またその時考えたことをいくつか書いてみます。
日経新聞の「私の履歴書」はその生誕から現在までを概ね時系列に書いていますが、
ここでは印象深いことをスポット的に取り上げることにします。 ------------------------------------------------------------------------------------------ (19.11.17) 第6回 駆けっこ 近年スポーツ中継などで「身体能力」という言葉をよく耳にしますが、 それはおおよそ以下の能力を総合したものだと思います。 @瞬発力 …走るのが速い、反応が速い A持久力 …スタミナがある B体格・体力 …体が大きい、背が高い、力が強い Cバランス …左右・前後のバランス感覚が良い D柔軟性 …関節が柔らかい、筋肉が柔らかい この他に、判断力、記憶力(再現性)、向上心・研究心、勇気、コミュニケーション力、リズム感、 などスポーツに秀でるためには上記の「身体能力」とは別な能力も必要とされるでしょう。 さらにそれ以外に 育った環境や親の資金力なども大きく影響することは論を待たないでしょう。 しかしここでは、あまり複雑にしないために@〜Dの「身体能力」に絞って話を進めます。 私の「身体能力」は子供のころから大きな偏りがありました。 @瞬発力はかなり優れ、A持久力は人並みよりやや良い程度、B体格・体力は人並みです。 しかし、CバランスとD柔軟性は人よりも相当に劣ります。 Cバランスのよさを計る一つの方法として、目をつぶって片足で何秒立てるかがあります。 私はこれが苦手で小学生の頃も現在も10秒も出来ません。 D柔軟性はもっとひどく、自分の背中で両手で握手しようとしても、指の間は30cm以上も空いてしまいます。 両脚の開脚は今も昔も90度未満です。 小学生の頃から柔軟性は70才台と言われていました。 体の関節が固いことは意外な苦手を生み出します。 例えば水泳のクロールで息継ぎをする時に首を傾けると、一緒にボディも大きく傾いてしまって推進力が著しく削がれてしまいます。 持久力はある方なのに長く泳ぐことができないのです。 またバランスが重要となるスキー、スケートといった「滑る」スポーツも苦手です。 このように身体能力に大きな欠陥があるため、 例えば小学校でよく行われる「マット運動」とか「器械体操」などは非常に苦手ででした。 中学校では柔道なども苦手、バスケやバレーも上手くなれなせんでした。 後述するように短距離走などは速いのに苦手なスポーツが多いため、 体育教師からかなり睨まれました。 「やる気がない」とか「ふざけている」と何度か言われました。 一方で短距離を走るのは最初から速く、 校内運動会レベルではずっと一位、小学校・中学校では学校を代表して地区の大会に何度も出場してよい成果を出していました。 100m、200mでは歴代(約40年間)の校内記録をずっと保持していました。 高校では陸上競技部に入り、最初から上級生を押しのけてチームで2番手、2年の夏からは短距離走のエースでした。 なお、長距離走の方は1つのクラスでなんとか一位二位になれるかな、というレベルです。 学校代表で大会に出ても特に活躍した記憶はありません。 陸上競技部では長距離選手としては論外です。 今でもたまに5kmや10kmといったレースに出たりしますが、結果は可もなく不可もなくです。 まあ、駆けっこが速かったと言っても、それは「オリンピックを目指す」レベルには程遠く、 一番速かった高校3年でも、学校内で一位、市で二位、県で七位といった程度です。 県を超えた大会に出られたことはありません。 典型的な「井の中の蛙」ですね。 それでも駆けっこが速いおかげでずいぶんいい思いをしています。 小中高の校内運動会ではラストの花形、クラス対抗や地区対抗リレーには必ず出場していました。 アンカー(最終走者)で5人抜き優勝したこともあります。 おおぉ〜!とかキャ〜!という叫びを聞きながら走るのはとても気持ちのよいものです。 真っ先に白いテープを切るのは誇らしいものです。 高校では、サッカー部で一番速いといわれていた人気のイケメン選手に、 リレーで大きな力の差を見せつけることができました。 彼のファンである大勢の女生徒のエエェ〜〜!?という悲痛な声と、ゴール直後にイケメン選手の「クソ! 陸上部にはかなわん!」という叫び声と…。 このような体験が自分への肯定感を蓄積するのでしょう。 時は一気に40年も流れ…、 つい2か月前にも地区のスポーツ大会でちょっと活躍しました。 最終種目の地区対抗リレーでアンカーとして走って優勝(12チーム中)、しかも歴代最高記録でした。 このスポーツ大会など、地元の小学生とフツーのおじさんや近所のおばさんが出場する大会なのですが、 それでもこの年齢になってもチームの勝利ため必死で走れるのは幸福です。 失敗もあります。 2年前にマスターズ陸上の55〜59才の部に登録しました。 メンバー全員が元陸上部で今も走り続けている健脚ぞろいです。 メンバー同士の練習会にも何度か出て、10才ぐらい若いメンバーにも引けを取らないで走れて気をよくしていました。 ところが練習のしすぎで腰を痛め、マスターズは出場なしとなってしまいました。 最近、どんな死に方が理想なのかを考えたりします。 家族や多くの親族に囲まれて布団の上で大往生が理想とされていますが、私は御免です。 病気や老衰で死ぬのは嫌です。 長い間痛みなどで苦しむのは勘弁して欲しいです。 また老いてボケてしまうのは絶対に嫌です。 病院関係者は生命の尊厳を重視する一方、人間としての尊厳は過度に軽視しています。 「ボケても人間には変わりないんだよ」という方もいますが、 私は心の中で「じゃ、あなたは進んでそうなりたいの?」と言ってしまいます。 理想的な死に方の一つは、 80才台で坂道を上るトレーニングをしていて突然心臓が止まって死ぬことです。 前を向いて、上に登っている状態のまま死ぬ、これが理想ではないかと強く念じています。 ------------------------------------------------------------------------------------------ (19.10.12) 第5回 化学実験 2019年のノーベル化学賞はリチウムイオン電池の発明者、吉野彰さんの頭上に輝きました。 氏が化学に興味を持ったきっかけはファラディの「ロウソクの科学」だったそうです。 それを聞いて私も小学生〜中学生にかけて化学実験マニアだったことを思い出しました。 原始的な化学実験をするようになったのはおそらく幼稚園の頃からです。 例えば、植物の葉や花弁、木の実をすりつぶして水で薄めて緑や赤、黄色などの溶液を作ったりしました。 それに酢(酸性)や石灰水(アルカリ性)の溶液を入れると、 緑や赤、黄色がまったく別の色に変わるのを幼い私は神秘的な思いでながめていました。 将来はこのような不思議なことを解明できるようになろうと朧げに思っていました。 ちなみに酢は自宅の台所から調達、 石灰は学校のグラウンドに引かれた白ラインを少し削って失敬していました。 その他、醤油や油やミョウバン(漬物に使う)など手当たり次第にいろんなものを試していました。 原始的な実験には牛乳瓶などを使っていましたが、 小学校に入ってからはビーカーや試験管を少し買ってもらいました。 小さな顕微鏡を買ってもらったのもその頃です。 蝶々の羽の鱗粉、花の花粉などをとってきては熱心に観察していました。 池や田んぼの泥を採取してきて微生物を見るのも好きでした。 中でも独特の秒な動きをする「ラッパ虫」が私のお気に入りでした。 虫と言えば、青虫や毛虫と取ってきて育て、やがてサナギになり蝶や蛾に孵すのも好きでした。 このような実験や観察をする時、すぐ横にはいつも2才下の弟がいました。 そのうち、このような化学実験を扱った本が小学校の図書館にあることが分かりました。 全国教育図書鰍フ「理科実験大辞典(化学)」です。 私はこの分厚い辞典を数年借りっぱなしで熱心に読みました。 これは教師向けの本なので漢字がたくさん載っているのですが調べながら読んでいるうちに覚えてしまいました。 化学反応式も実験をするうちにいつの間にか覚えてしまいました。 この本を参考に化学実験の薬品や器具を揃え、たくさんの実験をするようになりました。 そして内田洋行の化学実験器具や関東電化の薬品カタログも手に入れました。 それから数年後、そろえた薬品や器具は、今記憶しているのだけでも… ・塩酸(HCl) ・硝酸(HNO3) ・硫酸(H2SO3) ・酢酸(CH3COOH) ・過酸化水素水(H2O2) ・水酸化ナトリウム(NaOH) ・アンモニア水(NH3) ・塩化アンモニウム(NH4Cl) ・硝酸銀(AgNO3) ・硝酸カリウム(KNo3) ・硝酸コバルト(Co(NO3)) ・硝酸アルミニウム(Al(NO3)3) ・硫酸銅(CuSO3) ・硫酸第一鉄(Fe(No3)2) ・塩素酸カリウム(KClO3) ・重クロム酸カリウム(K2Cr2O7) ・ケイ酸ナトリウム(Na2SiO3) ・二酸化マンガン(MnO2) ・チオ硫酸ナトリウム(Na2S2O3) ・酒石酸ナトリウムカリウム(C4H4O6KNa) ・二硫化炭素(CS2) ・メチルアルコール(CH3OH) ・エチルアルコール(C2H5OH) ・ジエチルエーテル((C2H5)2O) ・マグネシウムリボン(Mg) ・粉末マグネシウム(Mg) ・金属ナトリウム(Na) ・アルミニウム板(Al) ・銅板(Cu) ・スズ(Sn) ・鉛(Pb) ・亜鉛(Zn) ・黄リン(P) ・赤リン(P) ・粉末イオウ(S) ・ネスラー試薬 ・アルコールランプ ・ガスバーナ ・秤量天秤 ・顕微鏡 ・水銀温度計 ・純粋製造用イオン交換樹脂 ・イオン濃度試験紙セット ・ビーカ、フラスコ、広口瓶、試験管、ガラス管、ピペット、メスシリンダ等 ・理科実験大辞典(化学)全国教育図書 ※ 卒業とともに小学校に返して新装版を買い直し。 私の両親は化学の知識がほぼないので、 これらの器具や薬品の選択はすべて私が行いました。 薬品・器具名と価格の表をカタログを見ながら自分で作成して小学校に出入りしている業者に依頼するのです。 理解ある先生がそれを仲介してくれましたが、その選択に関しては全然関知しませんでした。 今度はあの実験をしよう、あれを観察しよう、そのために必要な器具と薬品はAとBとC…、などと考えるのがとてもワクワクして楽しみでした。 また、Dを欲しいが予算オーバー、Dは来年に回して代わりにもっと安いEとFを買おう、 そうすれば別の実験ができる、などと会社の予算を作るような頭の働かせ方をしていました。 さて、これらの化学薬品や器具のお金をどうやってつくったかというと、 それは月々の小遣いをためるしかありません。 小学生の頃、月におそらく300〜500円の小遣いをもらっていたはずです。 このお金で同級生や近所の子供たちとたまにお菓子や玩具などを買っては遊んでいました。 しかし、4年生あたりからそんなことに使うことは止めてほぼ全額貯金することにしました。 すると1年間で500×12=6.000円お金がたまります。 弟もその半分ぐらいためるので、合計年9.000円になります。 他に、親戚からもらったお年玉なども全額預金します。 加えて、誕生日やクリスマスのプレゼントはいらないから代わりにお金をくれ等という具合で、 1年間で15.000〜20.000円ぐらいお金ができます。 当時の物価は感覚的には今の3割ぐらいでしょう。 パンやアイスクリームが一個20〜30円だった頃です。 しかし今改めて思うと、極めてリスキーなことをしていたように思います。 防火設備もない木造の家屋で小学生が火を使うことはとても危険です。 また、上記リストには黄リン(P)のように青酸カリ以上に致死量が少ない (少ない量で人が死ぬ)猛毒も含まれています。 塩素酸カリウム(KClO3)を触媒とともに熱して水上置換法で酸素を取り出す実験など、 一歩間違ったら大爆発を誘発します。 私はこのような実験をする準備としてノートに実験の図や注意事項を丹念に描いていました。 上記の実験では、ガラスの導管を水から引き上げる前にガスバーナの火を消すと水が逆流して爆発するので厳重注意!など。 このように、実験に伴うリスクについては注意深く確認していましたが、 それもやっぱり極めてリスキーなことには変わりありません。 リスキーといえばその最たるものが金属ナトリウム(Na)です。 のちに国の実験炉「もんじゅ」で大爆発を起こしたものこの物質です。 しかし、この金属ナトリウムについては忘れられない美しい思い出があります。 おそらく小学校6年生から中学に上がる春だったと思いますが、その爆発力を確かめる実験をしました。 金属ナトリウム50g程度を古くなったタライに入れ、畑の真ん中に置きます。 それに遠方(10〜15m)から水を入れるように仕組みます。 その1〜2秒後、金属ナトリウムは水と化学反応、炎をあげてドン!!爆発します。 タライには爆発でできた大きな穴が開いていて、その威力に感動していました。 その時、急ににわか雨が降ってきました。 すると、畑のあちらこちらからチラチラと小さな炎があがったのです。 1〜2秒間持続する薄くて赤い炎が何十、何百と次々に起こりとても幻想的な光景が出現したのでした。 どうしてこんなことが起こったかはすぐに推測できました。 爆風で飛散した微小な未反応の金属ナトリウムに、 雨粒が当たって次々と化学反応し微小爆発しているのです。 それにしても忘れられない美しい光景でした。 それから数年間にわたって私は薬品と器具を買い続けました。 種々の無機結晶を作ってはキラキラ輝く美しさにうっとりと見とれたり、 銀などの金属樹を析出・成長させて顕微鏡で観察したり、 床屋からもらってきた髪の毛からアミノ酸を抽出して醤油を作ったり、 種々の化学電池をつくったり、 いろいろな実験はとても楽しかったです。 しかし、そんな楽しい日々にも終わりが訪れます。 あれは中学3年か高校1年だったと思います。 硫酸亜鉛銅系ケイ光体を作る実験の過程で発生した硫化水素(H2S)による中毒で、 5〜6時間も立ち上がれなくなったことがありました。 その日は家に私しかいないのに意識が朦朧となってきた時はとても心細かったです。 その失敗をきっかけに、これ以上化学実験を続けることへの本能的な警戒感が出てきました。 このままではいつか重大な悪いことが起きるかもしれない、 いままで何事もなかったのは単に運がよかっただけかもしれない、 きわめてリスキーなことはもうやめよう、そう考えるようになりした。 しかもそれは、これまでの定性的な実験に限界が見えてきた時と重なります。 もっと進んだ定量的な実験を行うためには高価な測定機器や分析機器がいくつも必要ですし、 それは子供の小遣い程度ではとても買えるものではありません。 その頃、私の興味は原子核や量子力学の方に移り、 それらの実験は大きな組織で計画的に行うもので、個人が太刀打ちできるものではありません。 実験の続きは大学に行ってからと思うようになり、そのためにはまず入試に受からなければなりません。 そのようにして、愛すべき化学実験はフェイドアウトしていきました。 ------------------------------------------------------------------------------------------ (18.04.07) 第4回 怖い話、不思議な話 私がこれまでに住所を置いたところを数えてみると、全部で7か所になります。北から順に… ・札幌市(北海道) ・弘前市 (青森県) ・十和田市(青森県) ・天童市 (山形県) ・松戸市(千葉県) ・市川市(千葉県) ・江東区(東京都) 同じ市の中で引っ越したこともあるので住んだのは9か所です。 親の関係、学校の関係、仕事の関係、あるいは自発的にすいぶんいろんなところに住みました。 そんな中で体験した怖い話、不思議な話を書きます。 T:消えた徘徊老人 あれは20代の頃です。雪がちらついていたので冬だったと思います。 日が暮れた頃、私は人気のない歩道を歩いていました。 車道は1分間に1〜2台のクルマが通る程度でひっそりしていて、その脇の歩道は狭くて人がなんとかすれ違える程度でした。 すぐ近くには建物はなく、空き地か畑が広がっていました。 すると前から高齢らしい男性がこちらに向かって歩いていました。 その男性以外に前方に人はいませんでした。 私はどこかおかしいなと思いました。 と言うのも、その男性は冬なのに白っぽい浴衣に見えるような服を着ていたのです。 今だったら「徘徊老人か?」と思うのでしょうが、当時はそんな言葉はありませんでした。 その男性は狭い歩道の真ん中を歩いていました。 だんだん私に近づいてきます。 いよいよすれ違う段になって、私は少しだけ道をよけました。 相手も少しはよけるだろうと思ったからです。 ところがその男性は私を全然気にせず、スピードも落とさずまっすぐ近づいてきました。 私は衝突を回避しようととっさに大きくよけたので転びそうになりました。 私は一言「こら!」とでも相手に言おうと思い、すぐさま後ろを振り向きました。 え!? いないのです!! 誰も。 近くには脇道はありませんし、大人が身を隠せるところはありません。 あったとしても私はすれ違いさま、すぐに振り返ったのです。 いないはずがないのです。 私は背筋が寒くなりました。 「わあ!」と叫んだかもしれません。 私はそれ以上夜道を歩くのが怖くなりました。 ちょうどタクシーが通りかかったのでそれに乗って帰宅しました。 次の日の朝、現場を見たのですが何も変わったことはありませんでした。 しかし、帰りは夜道を歩くのが怖くて最初からタクシーを使いました。 あれはいったい何だったのでしょう? U:空に描かれた文字 あれは20代の終わりごろでしょうか? たぶん秋だったと思いますが、雲はほとんど無く晴れわたっていました。 空気は乾いていてさわやかでした。 休みの日の午前中、私はバス停に向かって住宅地をあるいていました。 ふと空を見上げると、白い文字があるのです。 空高く、4つのアルファベットらしいものが。 それは雲が偶然そのような形になったというふうではなく、 はっきりとした形の4文字で、日の光にキラキラ輝いていたようにも記憶しています。 すぐに思い出したのは、1964年の東京オリンピックで空に描かれた五輪です。 私はこのアルファベットは、どこかの企業の新手のコマーシャルかと思いました。 東京オリンピックの時と同様わざわざ飛行機を使って空に描いたのかな、と考えました。 ただ、文字が何を意味しているのか分かりませんでした。 さて、あれからずいぶん時間が経ちました。 しかし、あれ以来空に描かれた白い文字は見たことも聞いたこともありません。 人に尋ねたこともありますが、誰もそんなものは見たことがないし聞いたこともないと言います。 インターネットで「空・文字・画像」などと検索してもそれらしいものは出てきません。 明らかにフェイクとわかる画像はありますが、 私が見たような空に描かれた白い文字は出てきません。 よく考えると東京オリンピックでは、五「輪」だから飛行機で描けたのです。 文字は無理でしょう。 この世に、そのようなものはないのです。 私はあるはずのないものを見たのでしょうか? あの時カメラを持って歩いていたらなあ、と今でも思います。 あれはいったい何だったのでしょう? V:多くの人が目撃した謎の光 あれは確か30代でした。夜9時ごろ飲みに行こうと数人と歩いていました。 男女半々ぐらいです。 するとその中の女性が空を見上げて、 「あれは何?」 と言います。 みんなで見上げると、暗い空に数個の光の点が見えます。 光の色はどれも同じで黄色からオレンジ色で不規則に点滅しています。 それはみんな一緒に空を一定方向に動いたり、静止したり、反対方向に動いたり、 ばらばらに動いたり、急に速度を変えたりしていました。 私たちだけではなく、周囲の10〜20人もが怪しい光に気づいて見上げていました。 みんなざわついていました。 「飛行機でも、ヘリでも、気球でもないよね、あの動き方は」 「音も聞こえないし」 「あれ、いわゆるUFOだよね」 「カメラ持っている人いる?」 「普通のカメラじゃ映らないよ」 周囲からはそんな会話が聞こえました。 やがて光は空の彼方に見えなくなってしまいました。 今だったら常に持ち歩いているスマホで撮影できたでしょう。 あれはいったい何だったのでしょう? W:巨大な麦わら帽子 私には腐れ縁の男がいます。 その男(以下A君)と私は幼稚園から高校3年までずっと同じクラスでした。 こんなことがどのぐらいの確率で起こるの計算してみました。 ・幼稚園は1クラスだったので、×1 ・小学校は一学年2クラス、3回のクラス替えがあったので、2×2×2=8 ここまでで1/8 ・中学も2クラス、入学時を含めて2回のクラス替え、2×2=4、ここまで1/32 ・私の高校にはクラスの1/4ぐらいの生徒が進学、ここまでで1/128 ・高校は8クラス、入学時も含め3回のクラス替え、8×8×8=512 ・A君とずっと同じクラスでいる確率は、1/16384(0.0006%) さてそのA君、小学校の夏休みの絵日記にとんでもないことを描いていました。 それは奇妙な物体です。 巨大な麦わら帽子のようなもので色は銀色。 A君は近くの林の草地でほんとに見たんだ、 次の日にはもう何もなかったと主張しましたが、その時はそれで終わりました。 中学になったある日、テレビでUFOの特集がありました。 次の日私はA君に、 「テレビ見た?あれって、小学生の時に日記に書いていたやつじゃない?」 と言いました。A君は次の日に古い日記を学校に持ってきました。 日記には、蝉をとった、おばあちゃんのところへ遊びに行った、 墓参りをした、暑かったのでプールに行った、 今日の夕ご飯はカレーだった、 などという小学生らしいことが書いてありました。 しかし、ある日の日記には例の銀色の巨大な麦わら帽子が草地にあったと書いてありました。 その絵は、前々日にテレビでみたUFOとそっくりです。 A君は小学生の頃はUFOなど知らなかったし、私も知りませんでした。 A君は見たままをそのまま描いたと言います。 正直で純情、真面目な当時のA君ですから、嘘はないでしょう。 あれはいったい何だったのでしょう? W:スリッパとソックス 今から数年前のこと、プラハ(チェコの首都)のホテルに宿泊した時のことです。 ホテルはヴァーツラフ通りに面していました。 内装はすごく豪華でした。 私はそこで説明できない奇妙な「事件」に遭遇しました。 ところでプラハは、17世紀の30年戦争(勃興するプロテスタントとカトリックの戦い)をはじめ、 第一次、第二次世界対戦等にさらされましたが奇跡的に最小限の被害で済んでいます。 このため、プラハの中心部に中世からの街並みがそのまま保全され、 加えてバロックや近代の建築が加わり混然とした感があります。 そのため何百年もの間の人々の感情、 喜び、悲しみ、恨み、苦渋などがプラハの街のあちこちに染み込んでいるようにも感じます。 すでに黄泉の国にいった普通の市民や兵士、聖職者、王侯貴族の声なき声が聞こえるようです。 俗に言えば何が「出て」もおかしくない街です。 さて私は靴とソックスを同時に脱ぐ場合、 例えばスポーツジムのロッカーでは靴の中にソックスを入れておく習慣があります。 ホテルなどでベッドに入る場合も同様、スリッパにソックスを入れておきます。 その夜もそのようにしてベッドに入りました。 部屋はツインでしたが宿泊するのは私一人です。 今日見たプラハの街のことを思い、 また翌日朝早くドイツに向かい、夜にはベルリンフィルを聞くことを楽しみに眠りにつきました。 翌朝起きてすぐに、スリッパに入れてあった1足のうちの一方のソックスがないことに気が付きました。 あれおかしいな、と思いその近くやベッドの下などを探しても見つかりません。 さらに驚いたことに、スリッパが一足半(3個)になっていました。 ソックスがスリッパに化けたのです。 結局ソックスは見つかりませんでした。 「まだ行くな」とプラハの街が私に言っていたのでしょうか? それは冗談としても、まったく説明がつかない出来事でした。 あれはいったい何だったのでしょう? ------------------------------------------------------------------------------------------ |