|
私の履歴書 |
|
日経新聞に毎日連載されている「私の履歴書」に倣って、私的なトピックや社会的事件、
またその時考えたことをいくつか書いてみます。
日経新聞の「私の履歴書」はその生誕から現在までを概ね時系列に書いていますが、
ここでは印象深いことをスポット的に取り上げることにします。 ------------------------------------------------------------------------------------------ (17.11.03) 第3回 自己啓発セミナー 社会人になってから数年たった頃、会社の同僚から自己啓発セミナーに誘われました。 アメリカのライフダイナミクス社の日本法人が主催するセミナーです。 (自己啓発セミナーといえば最近は一部でとても評判が悪いのですが、 1980年代当時はまだ黎明期で大きな「事件」は聞いたことがありませんでした。) 私は未来にやや不安を感じていたのと、 新しいことへの好奇心とからすぐに受講を決めました。 中には、あれは宗教だ、洗脳だ、カルトだ、費用がかかりすぎる、友達を失う、離婚した人や職を失った人もいる、 やめた方がいい、と忠告する人もいました。 しかし、止める人はみなセミナーに行っていない人なのでした。 このセミナーは最初に受講するベーシックコース、 さらにアドバンスコース、そしてアイエヌ(インティグリティー・ネットワーク)の3コースから成っています。 ベーシックコースは1日8時間×4日間(土日含む)で、仕事を2日休んで通うことになります。 次のアドバンスコースは4日間(土日含む)ホテルに缶詰めになり、1日12時間以上もセッションがあります。 最後のアイエヌは約2か月間続き、これは日常生活をしながら活動します。 受講料はとても高価で、3コース併せて約50万円です。 アイエヌまで進めばその他に、交通費、電話代、飲食費、場合によって宿泊費があるので、 受講料と合わせて100万円を要すると思ってもいいでしょう。 参加していたのは18才〜60才ぐらいまで、30才前後の方々が最も多かったようです。 男女ほぼ半数で、どちらかというと男性の平均年齢が上でしょうか。 また、上記のように費用が多くかかるので、ある程度生活に余裕がある方々か独身貴族が多かったと思います。 また、歌手などある程度世に知られている方もいました。 セミナーでは心理学や行動心理学を応用した数多くのセッションが組まれていました。 それらのセッションを通じで自己を知り、人との関係を考え、 試行錯誤しながらトライして結果を自分にフィードバックしていくような内容でした。 ただ各セッションは強制ではないので、自分の方から積極的にかかわる意思がないと、 何も得られない結果になりかねません。 過度に怖がってやったふりではダメなのです。 騙されるリスクを負っても、何かを得ようとする心構えが大切であることもこのセミナーを通じて学びました。 あるセッションでは精神的にかなりつらくなり、泣いてしまうこともありました。 私だけではありません。 仕事に厳しそうでクールなある中年男性までが、人前をはばからず大きな声で嗚咽していました。 そういう光景は日常ではなかなか見られるものではありません。 参加者はみんな、一度ならず何度も泣いたと思います。 ヒステリー状態になる女性もいました。 しかし、そのつらい時間を乗り越えると、世界がこれまでとまるで違ったように見えるのにはとても驚きました。 世界は明るく楽しく嬉しく、未来は輝かしく待ち遠しく、女性はみな綺麗に見えるのです。 これは洗脳といえば洗脳と言えなくもありません。 人は簡単に集団催眠にかかるものです。 そして古今東西の企業や政党、宗教などの集団はみな、多かれ少なかれ人のこの性質を利用していることにも気が付きました。 最後のアイエヌの内容は、一言でいえば、 ”2か月間に何人セミナーに勧誘できるか” を競うゲームです。個人目標、グループ目標、全体目標の数字を設定し、 それを達成するために戦術を練り、互いに協力して行動するのです。 多くの受講者がこれを知った時点で脱落してしまいました。 彼ら曰く、 「なぜ我々がセミナー会社の金儲けを手伝わなくてならないのか?」 「結局は会社が儲けるためのセミナーだったのだ!」 「ベーシック、アドバンスは結局はアイエヌの勧誘のためだったのか!?」 しかし、私はこう考えました。 「ライフダイナミクス社のみならず、すべての企業の基本的な目的は、”利益を得ること”に決まっている。 その前提があってこそ、”すべての人に音楽を”とか、”暮らしを快適に”などの企業のビジョンがある。 セミナーに人を勧誘することによって会社は儲かり、私はそこから得るものあれば、それは”WIN-WIN”ではないか」 結果的に私は合わせて10人を勧誘しました。 これは平均の倍以上でした。 中には15人も20人も勧誘する人もいました。 その人はやはり、人を説得する力に長けているので社会的に成功していて周囲への影響力が大きいからでしょう。 それに対し大学生などは、ゼロ人かせいぜい1人と苦戦を強いられていました。 アイエヌの2か月間、仕事が終わった後や土日など、 勧誘活動のサポートと称してあちこちに出かけてはずっと遊び回っていました。 毎日がとてもエキサイティングでお祭り騒ぎのような、それはそれは楽しい日々でした。 一緒に活動した人たちとは本当に仲良くなりました。 さて、セミナーが終わった後も私は半年ほどライフダイナミクス社とかかわっていましたが、 次第に関心は薄くなっていきました。 それとともに、あそこで得た感動も過去の物語になっていきました。 だた、そこで知り合った個性的な人たちとはたまに会って遊んでいました。 つい最近、アイエヌを同じ時期に受講した方々と、 セミナー受講30周年の「同窓会」が横浜で行われました。 高い階が好きという幹事の意向で、 みなとみらいのインターコンチネンタルホテル最上階の中華料理店が会場でした。
私たちの「同窓生」は約60人、 そのうち半数以上の方々とまだ連絡を取り合っています。 幹事の注力によって2〜3年に一度は同窓会を行っており、 私もできるだけ馳せ参じるようにしています。 今回の30周年には、50代〜60代の男女10名が参加しました。 このうち30年ぶりで再会したのが、当時まだ大学生だったA君です。 「おお、Aじゃないか?」 「○○ちゃん? 全然変わってないじゃん」 30年ぶりに会ったのに当時と同じ言い方をしても、 何も違和感がないこの不思議な感覚。 A君は最近不祥事があった自動車メーカーで要職についていて、 1年の半分以上は海外にいるそうです。 やはり不祥事があった別の自動車メーカー勤務の、当時まだ大学生だったB君も海外勤務が長かったようです。 フランスと日本を行ったり来たりしている化粧品メーカーのHさんにも久しぶりに会いました。 昼過ぎから始まって、3次会が思ったのは夜10時、 飽きもしないで語らいが続きました。 (3次回を除いてノンアルコール) みなとみらいの夜景を背に、 30年前の青年男子女子は「また集まろうね」と言いながら別れました。 ------------------------------------------------------------------------------------------ (17.08.27) 第2回 野球 小学校の高学年あたりから野球に夢中になりました。 ジャイアンツの試合はテレビまたはラジオで欠かさずチェック、 翌日の新聞でさらに詳しくチェックしていました。 他の少年たちと同様、私も強いチームが好きだったのです。 V9時代で一番強かった3〜4年目あたりのメンバーは… 1番 センター 柴田 2番 セカンド 土井 3番 ファースト王 4番 サード 長嶋 5番 ライト 国松(または末次) 6番 レフト 高田(1番に座ることもあった) 7番 キャッチャー 森 8番 ピッチャー 堀内 9番 ショート 黒江 ピッチャー 金田、城之内、高橋一三、渡辺、中村、宮田 この時代のジャイアンツはライト以外はほぼ固定メンバーだったように思います。 また他のチームはピッチャーは9番でしたが、ジャイアンツだけは8番だったように記憶しています。 自由に打てるのはスターだったON(王と長嶋)のみで、その他の選手はONの前にいかに塁を埋めるか、 出塁したONをいかにホームに返すかに注力していたように思います。 全体的には守り主体のチームだったように思います。 私の通う小学校では課外活動として男の子は全員野球をすることになっていました。 クラス対抗や年に1回の対外試合に備えて春から夏にかけては毎日練習がありました。 私のクラスのチームはたいして強くなく、私も平凡な選手でした。 その他にも、土日は暇があれば近所の子供たちと野球やソフトボールをしていました。 中学では野球部に入りました。 野球部は(他の部もそうでしたが)今でいうパワハラの巣窟でした. しかし当時はそれが当然だと思っていましたし、教師も黙認していました。 例えば、少しでもだらけた態度をとると先輩にバットで尻をたたかれます。 その痛いこと!青アザがしばらく残ります。 真夏にどんなに暑くても練習中に水を飲むことが許されませんし、木陰で休むなどは論外でした。 それに加え、言葉の暴力も日常の風景でした。 「死ね!」「もうやめろ!」とか、 「へたくそ!」「帰れ!」などという言葉は、 発する側が本気でそう思っている訳でないので、受け手は深く気にしなければよいということを学びました。 「今にこいつよりもうまくなってやる!」と思えれば、言葉の暴力などの不条理も逆に養分にもなります。 要はその人次第です。 野球部の練習は年に350回ぐらい、日曜もほとんど朝から練習でした。 試合が近い時には昼休みもキャッチボール、 また朝6時からの早朝練習もありました。 強化合宿やよその学校との練習試合もたびたびありました。 私の1つ上、2つ上の学年は選手層が厚く、 レギュラー入り出来たのはやっと2年生の夏になってからでした。 ポジションはキャッチャーでした。 その年の秋の大会では地区予選の1回戦でボロ負けしました。 しかしそれでも、相変わらず長い練習が続きました。 特に冬季の室内練習はスクワットなどの基礎体力トレーニングが主でつまらない上につらく、始まる前は悲壮感さえ漂っていました。 ちゃんとできない部員はバットで殴られました。 それでもみんなよくついてきたと、今さらそう思います。 翌197X年、チームは弱小と見られていたのに、十数校が参加する地区予選を勝ち抜き本選に進みました。 そして、本選でも運に恵まれて決勝にまで進みました。 その頃の私は体が大きくなり飛距離も出るようになったので、 3番または4番に座る主力選手として活躍できるようになっていました。 決勝では味方打線が沈黙する一方、相手チームの4番にホームランを打たれて残念ながら0-2で敗れました。 しかし、合わせて60〜70校の中の準優勝ですから弱小チームにしては期待以上のよい成績でした。 予選、本選合わせて7試合、ノーエラーという固い守りとよいピッチャーに恵まれました。 キャッチヤーのリードも少し良かったのかもしれません。 私はストレートとカーブしかなかったジャイアンツのエース、堀内の投球をスコアブックをつけながら研究していました。 球種はもちろん、コーナーワーク、牽制球なども詳細に記録していました。 それが少しばかり役立ったのかも知れません。 この大会で思い出深いのは、 満塁で走者一掃の逆転3塁打を打ったこと、 ホームスチールを同じ試合で2度も阻止したこと、 わずか1安打に抑えられながら1-0で勝ったこと(私の1安打が決勝点になった)、 また雨上がりのグラウンドで盗塁を2度も失敗したこと等、今でも鮮明に覚えています。 試合を勝ち進むにつれてスタンドの観客もしだいに多くなり、決勝では500人という田舎にしては「大観衆」の中で試合をしました。 ブラスバンドの演奏や応援歌、歓声などは、試合中はほとんど聞こえません。 しかし、勝った後に応援団の前にチームのメンバーとともに整列して祝福される時の誇らしい気持ちは今でも忘れません。 私はその地区の中では足が速くて肩も強いよいキャッチャーだと評価され、 甲子園に出た私立高校からのスカウトの話もありました。 しかし、私は高校で野球を続ける気はありませんでました。 当時の私はチームスポーツをすることにやや倦んでいて、 陸上競技などの個人種目にあこがれるようになっていました。 中学3年の夏にチームを後輩に託してから、私はただの1度もグラウンドに出ませんでいた。 それまでになく勝ち進んだ旧チームの主力選手だった私は、グラウンドに出てれば後輩に尊敬されたのかもしれません。 が、当時の私の美意識ではそれはかっこ悪いと思っていましたし、野球への未練はもうなくなっていました。 ------------------------------------------------------------------------------------------ (17.08.20) 第1回 家庭教師 学生時代、私は家庭教師をずいぶんやりました。 大学院までの6年間、私は常時2〜3人受け持っていたのであわせて15人ぐらい家庭教師をしたことになります。 うち中学生が4人、残りは高校生でした。 以下は、予想を超えて非常にうまくいった唯一のケース、小谷野くんを受け持った時のことです。 198X年5月中旬、田舎の高校に小さなミラクルが起きました。 数学の校内実力テストの答案返却の時です。 「このクラスから1番が出た、誰だと思う?」 先生はそう言ってクラス中を見回しました。 「先生も信じられなかった、誰も当てられないと思う」 「1番は特進クラスの出来杉くんじゃないの?」 「いや、出木杉より良かったのは…、小谷野くん、君だ」 「え〜〜!!!」 「嘘だろ!!!」 クラス中が大騒ぎになったそうです。 無理もありません。みんながビリだと思っている小谷野くんが1番なのですから。 小谷野くん(当時17才)とその両親と面談したのは、彼が高校2年生の3月でした。 小谷野くんの父親は教師、母親は教育熱心で知的な感じでした。 「自分が受け持ったクラスにも、毎年1人2人こんな酷い成績の生徒がいるが、まさか自分の子がねえ… 貴重な体験だ」 父親が他人事のように言うと母親は眉をしかめて返します。 「何言ってるんですか、すぐにでも何とかしないとこの子の将来は…」 実際、小谷野くんの2年生の通信簿はひどいものでした。 小谷野くんが得意なのは音楽と体育、いずれも5段階評価で「4」。 小谷野君はトランペット等いくつか楽器ができて、それに運動神経もいいようです。 また、受験に関係のある主要教科では数学が得意で「4」、 残りの8教科、国語(現代、古典)、英語(リーダー、文法)、理科(物理、化学)、社会(世界史、倫理社会)は「1」と「2」のみ。 期末に4教科の追試を受け、なんとかそれをパスして留年ギリギリで進級するありさまでした。 小谷野くんが通う高校は生徒数350人ぐらいの中堅進学校でした。 トップクラスの数人は旧帝大に1年浪人して合格するのが相場、 上位1割にいれば早慶などの難関私立大学や他の国立大学を狙うことができます。 350人中おそらく348番ぐらいの成績に甘んじている小谷野くんは、20〜30番ぐらいの生徒が志望する大学に入りたいとのことでした。 しかし今までの成績ではその合格はただのファンタジー、夢物語です。 「まず数学Vだけをやろう」 最初に私は小谷野くんにそう言いました。 「ゴールデンウィーク明けまで今から40日あるから、それまで数学Vの教科書を全部マスターしよう。 それまでは他の教科のことは考えなくていい」 それを聞いた小谷野くんはやや驚いた様子でしたが無理もありません。3年生で習う数学Vを1か月ちょっとでマスターしようというのですから。 私は、小谷野くんの唯一得意な数学を突破口にしようと考えたのです。 実のところ数学Vは簡単なので、数学T、Uを復習しながらでもすぐにマスターできると見込んでいました。 「できると思う? 正直に言ってごらん」 「…思わない」 「もし仮に、数学Vを40日でマスターできたら、どう思う?」 「すごく自信がつくと思う」 「じゃ、チャレンジしよう。きっとできるよ」 それから小谷野くんは、学校のある日は3時間、休日10時間、数学Vに取り組みました。 どうしても分からないことがあったら、週に3回小谷野くんを訪れる私に質問します。 「どの問題が分からなかった?」 「ええと…」 「教科書は閉じて!」 「え? それじゃ問題がわからない」 「必死に考えていればわかるはず」 「…問題を暗記するんですか?」 「いや、暗記しようと思わなくても、必死に考えていれば自然と暗記しているはず」 「…」 「いいか、公式や定理は腹に落ちるまで使えば自然に覚えられる、暗記なんかいらない」 「そうなんですか…」 小谷野くんの美点は、言われたことはとりあえずその通りにやってみる素直さと、決して分かったふりをしないことでした。 ある日小谷野くんの部屋は、真っ暗で中から耳鳴りのようなキーンという音が聞こえてきます。 どうした?と声をかけると、 「先生が、暗くして聞くと音楽がわかるようになるって言ったから…」 小谷野くんはマーラーの第一交響曲「巨人」の冒頭を聞いていたのです。 「でも、ここはよくわからない」 「ここは早朝、太陽が昇る前の東の空を抽象的に表している。不安定な和音は人生の夜明けを暗喩しているんだ」 「ふーん、なんか深そう」 またその欠点は、諦めがあまりに早すぎることでした。それが、あの酷い成績をもたらしていました。 「分からなくてもすぐに諦めるな、 分かるところはどこで、分からないところはどこなのか、自分ではっきり区別しなさい」 と私は何度も言いました。 それから小谷野くんは驚異的に頑張り、ゴールデンウィーク明けまでに数学Vと数学T、Uの復習を終わらせたのでした。 そしてその直後に校内実力テストがありました。 冒頭の小さなミラクルはそ直後です。 「あの瞬間が一番うれしかった」 と小谷野くんは後で話してくれました。 高校に入って初めて努力らしい努力をして、 それがすぐに結果として現れたので大きな手ごたえを感じたのでしょう。 「さあ、これから夏休み前までは、英語と国語をやろう」 「数学みたいに1番になれるかな?」 「こら、調子に乗るな。英語と国語は数学と違って急によくならない、まず平均点をとれるようになろう」 「平均でいいの?」 「現状、ビリから何番目だろう、せめて平均点だよ」 「それから夏休み、物理と化学を集中的にやるといい。 特に物理は暗記することがほとんどないからすぐにマスターできる、運が良ければ満点も狙えるほど簡単だ。 物理科の僕が言うんだから間違いない、化学も似たようなもの」 小谷野くんは、夏、秋、冬と同級生もびっくりするほど学力が伸びていきました。 数学はトップクラスをそのまま維持、理科も上位に食い込むほどになり、 苦手だった英語、国語、社会は大きく足を引っ張らない程度になりました。 すぐに諦める欠点も克服したのです。 小谷野くんは志望校に現役で受かり、私も自分の教え方に自信をもちました。 しかし、その後何人かの成績が芳しくない生徒を受け持ちましたが、 特に目覚ましい成果は上げることができませんでした。 小谷野くんの時が、たまたまうまくいっただけなのでしょうか? |